
厚生労働省の「事業譲渡又は合併を行うに当たって会社等が留意すべき事項に関する指針」(事業譲渡等指針)は、令和8年厚生労働省告示第11号による改正版が2026年5月25日から適用されています。この指針が対象とする「会社等」は、条文上「会社法第2条第1号の会社その他事業を行う者で、労働者を使用するもの」と定義されており、個人で開業しているクリニックも医療法人も含まれます。承継でスタッフをどう引き継ぐかは、この指針と民法・労働基準法・医療法の条文で扱いが分かれます。
結論から言うと、承継の形によって答えが正反対になります。分かれ目は、権利義務の引き継ぎ方が「特定承継」か「包括承継」かです。
事業譲渡は特定承継です。契約を1本ずつ相手方の同意を得ながら移す方式で、労働契約も例外ではありません。民法第625条第1項は「使用者は、労働者の承諾を得なければ、その権利を第三者に譲り渡すことができない」と定めています。事業譲渡等指針も、この条文を根拠に承継を予定する労働者から個別の承諾を得る必要があると明記しています。
一方、医療法人同士の合併は包括承継です。医療法第58条は吸収合併を「消滅する医療法人の権利義務の全部を存続する医療法人に承継させるもの」と定義しており、労働契約も当然に移ります。同指針 第3も、合併では労働条件もそのまま維持されるとしています。
クリニックの承継で実際に使われる4つの形を整理すると、次のようになります。
| 承継の形 | 労働契約の扱い | 本人の承諾 |
|---|---|---|
| 個人立の事業譲渡 | 特定承継。当然には移らない | 必要(民法第625条第1項) |
| 医療法人の持分譲渡・社員交代 | 使用者が変わらず、そのまま継続 | 不要(契約の当事者が変わらない) |
| 医療法人の合併 | 包括承継。労働条件も維持 | 不要(医療法第58条・第59条の3) |
| 医療法人の分割 | 契約・計画に定めた雇用契約が移る | 不要だが通知・異議申出の手続あり |
持分譲渡は、買い手から見ると院長が交代する大きな出来事ですが、労働契約の当事者は医療法人のままです。使用者が変わらない以上、事業譲渡等指針が想定する場面にそもそも当たりません。個人立と医療法人で、承継後にやるべき労務の作業量がまったく違うのはこのためです。譲渡類型そのものの違いは事業譲渡と持分譲渡の記事で整理しています。
分割については、条文の読み方に注意が要ります。会社分割に伴う労働契約の承継等に関する法律(労働契約承継法)は、第1条・第2条のとおり会社法上の会社(株式会社・合同会社)の分割だけを対象としており、医療法人には直接は適用されません。ただし医療法第62条が同法第2条から第8条までを医療法人の分割に準用しているため、労働者への通知や異議申出の仕組みは同じように働きます。
もっとも、分割を選べる医療法人は限られます。医療法施行規則第35条の6は、医療法第60条の対象から社会医療法人・特定医療法人・持分の定めのある医療法人・認定医療法人を除いています。2007年3月以前に設立された持分あり医療法人は、そもそも分割という選択肢を持ちません。
事業譲渡等指針 第2の1の(2)は、承諾を得る際の留意事項を具体的に挙げています。「真意による承諾」を得られるようにすることが柱で、譲渡側は次の事項を十分に説明し、協議することが適当とされています。
ここで見落とされやすいのが、労働条件を変えて引き継ぐ場合は、承継の承諾とは別に「変更についての同意」も要るという点です。給与体系や勤務シフトを新院長のやり方に合わせるなら、それは同意の対象になります。
説明の中身にも歯止めがあります。同指針は、譲渡側が意図的に虚偽の情報を提供するなどして承諾を得た場合、民法第96条第1項に基づいて意思表示が取り消され得ると注意しています。交渉を急ぐあまり「条件は何も変わらない」と口頭で伝えてしまうと、後から承諾そのものが揺らぎます。
個人との協議と並行して、職場全体への手続もあります。同指針 第2の2の(1)は、過半数労働組合(ない場合は労働者の過半数を代表する者)との協議などによって理解と協力を得るよう努めることが適当とし、その開始時期を「遅くとも個々の労働者との協議の開始まで」としています。個別面談より先に、全体への説明の場を置く順序です。
できません。事業譲渡等指針 第2の1の(3)は、承諾しなかったことのみを理由とする解雇について、労働契約法第16条により権利を濫用したものとして認められないとしています。同条は「解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を濫用したものとして、無効とする」と定めた条文です。
同指針はさらに、事業譲渡を理由とする解雇にも整理解雇に関する判例法理の適用があるとし、譲渡側には配置転換を行うなど雇用関係を維持するための相応の措置が求められるとしています。クリニック1院だけの譲渡では配置転換先が事実上ないため、「承諾を得られなければ譲渡の条件が崩れる」構図になりがちです。だからこそ、協議を早く始める意味があります。
雇用を終える場合の手続も忘れられません。労働基準法第20条第1項は、解雇には少なくとも30日前の予告か、30日分以上の平均賃金の支払いを求めています。買い手の側から見れば、譲渡直前の駆け込み退職や解雇は、引き継ぎ後の診療体制を直撃します。承継で失敗する典型パターンでも、職員の離職は最初に挙がる論点です。
年次有給休暇は、労働基準法第39条第1項が「その雇入れの日から起算して6箇月間継続勤務し全労働日の8割以上出勤した労働者」に10労働日を与えると定め、第2項が継続勤務年数に応じて日数を加算します。付与日数は次のとおりです。
| 6か月経過日から起算した継続勤務年数 | 加算される労働日 |
|---|---|
| 1年 | 1労働日 |
| 2年 | 2労働日 |
| 3年 | 4労働日 |
| 4年 | 6労働日 |
| 5年 | 8労働日 |
| 6年以上 | 10労働日 |
持分譲渡や合併なら使用者が変わらない、または包括承継されるため、勤続年数はそのまま伸びます。問題は事業譲渡です。形式上いったん退職して新院長のもとで雇い直した場合に「継続勤務」が通算されるのかは、実質的に労働関係が続いているかで判断されるとされていますが、クリニックの承継に当てはめられる一般的な基準を一次資料で確認できませんでした。本記事では結論を書きません。管轄の労働基準監督署または社会保険労務士に、譲渡の具体的な形を示して確認してください。
あわせて、同条第7項の年5日の時季指定義務にも影響します。10労働日以上を付与される労働者については、基準日から1年以内に5日分の時季を使用者が定めて与えなければなりません。承継で基準日がずれるなら、新院長側の管理台帳を作り直す必要があります。
退職金は、労働基準法第89条第3号の2が「退職手当の定めをする場合」に就業規則への記載を求めています。定めがあれば、その内容が債務になります。事業譲渡では債務も当然には移らないため、誰がいくら負担するのかを譲渡契約で決めておかないと、引き継ぎ後に請求が来る形になりかねません。金額の水準や引当ての有無は、デューデリジェンス(買う前に対象の内容を調べる調査)で確認する項目です。
労働基準法第89条は、常時10人以上の労働者を使用する使用者に就業規則の作成と行政官庁への届出を義務づけています。変更した場合も同じです。個人立クリニックを事業譲渡で引き継いで新たに使用者になるなら、前院長の就業規則がそのまま自分のものになるわけではありません。自院の就業規則として作成し、届け出る手順が要ります。
労働契約を結び直す以上、同法第15条第1項の労働条件の明示も新たに必要です。賃金・労働時間その他の労働条件を明示し、厚生労働省令で定める事項は省令の定める方法で示さなければなりません。明示した条件が事実と違えば、労働者は即時に契約を解除できます(同条第2項)。
社会保険・労働保険の届出は別の手続で、期限も異なります。承継直後の手続の順序は承継直後30〜90日の記事でまとめています。院長が自分で抱える範囲をどこで切るかは院長業務の切り分けの記事を参照してください。
承諾しなかった方の労働契約は譲渡側に残ります。買い手の側に移る義務はありません。ただし事業譲渡等指針は、承諾しなかったことのみを理由とする解雇を労働契約法第16条の権利濫用に当たり得るとし、譲渡側に雇用関係を維持するための相応の措置を求めています。人員が足りなくなる前提で、採用計画を並行して立てておくのが現実的です。
労働契約そのものは切れませんが、理事長や管理者が変わることに伴う届出は別に必要です。また就業規則の内容を新体制に合わせて変えるなら、労働基準法第89条の変更届出の対象になります。「契約は続く」ことと「何もしなくてよい」ことは別です。
事業譲渡等指針は、労働条件を変更して承継させる場合には、承継予定労働者から当該変更についての同意を得る必要があるとしています。承継の承諾を得ただけでは足りません。引き下げの内容と理由を説明し、個別に同意を取る流れになります。
持分譲渡と合併では、使用者が変わらないか包括承継されるため、そのまま引き継がれます。事業譲渡の場合に通算されるかどうかは、実質的に労働関係が継続しているかで判断されるとされていますが、一般化できる基準を一次資料で確認できていません。労働基準監督署または社会保険労務士に確認してください。
分割契約または新設分割計画に承継する雇用契約を定めることで移せます(医療法第60条の2第2号・第61条の2第3号)。ただし医療法施行規則第35条の6により、持分の定めのある医療法人・社会医療法人・特定医療法人・認定医療法人は分割ができません。自院の類型を先に確認してください。
※本記事は一般的な情報提供を目的としたものであり、個別の労働契約の承継の可否や労働条件の変更の適否を保証するものではありません。承諾の取り方、有給休暇の通算、退職金債務の負担、就業規則の作成・届出については、社会保険労務士・弁護士および管轄の労働基準監督署に必ずご確認ください。数値・制度は2026年9月時点の情報に基づきます。
公開日:2026年9月14日/最終更新日:2026年9月14日
鎌形 博展(かまがた ひろのぶ)/ 株式会社EN 代表取締役社長。クリニックの開業支援・事務長代行・医業承継(M&A)をワンストップで手がける株式会社ENを率いる。制度改正が相次ぐ医療業界において、開業・承継の実務に精通した立場から現場に即した情報発信を行っている。
医療法人社団季邦会 理事長(首都圏7拠点運営)、東京医科大学救急災害医学講座 非常勤医師
社会医学系専門医指導医、慶應義塾大学大学院経営管理研究科 田中滋・中村洋ゼミ出身