
民法第612条第1項は、賃借人は賃貸人の承諾を得なければその賃借権を譲り渡すことができない、と定めています(e-Gov法令検索・民法 現行版)。クリニックの承継では患者・スタッフ・カルテの引き継ぎに目が向きがちですが、テナントで診療している医院の場合、この一文が承継全体を止めることがあります。承諾が得られなければ、その場所で診療を続ける権利そのものが移らないからです。この記事では、承継の型ごとに賃貸借契約の扱いがどう変わるか、敷金と連帯保証はどうなるか、定期借家だったら何を確認するかを、条文にさかのぼって整理します。
建物を借りて診療しているクリニックの契約には、民法に加えて借地借家法が適用されます。借地借家法は住居用に限られず、事業のために借りている建物にも及びます。適用されないのは、一時使用のために建物の賃貸借をしたことが明らかな場合だけです(借地借家法第40条)。
その建物賃貸借には、大きく2つの型があります。契約書の表題ではなく、条文の要件を満たしているかどうかで判断します。
| 項目 | 普通建物賃貸借 | 定期建物賃貸借 |
|---|---|---|
| 根拠 | 借地借家法第26条・第28条 | 借地借家法第38条 |
| 契約の方式 | 書面でなくても成立する | 公正証書による等書面(電磁的記録も可)で契約したときに限る |
| 事前説明 | 定めなし | 更新がない旨を記載した書面の交付と説明が必要(第38条第3項) |
| 期間満了時 | 期間満了の1年前から6か月前までに更新拒絶の通知がなければ、従前と同一条件で更新したものとみなされる(第26条第1項) | 更新はなく、期間の満了で終了する |
| 貸主からの更新拒絶 | 正当の事由がなければできない(第28条) | 正当事由の制度は働かない |
| 承継で効くこと | 買い手は原則として使い続けられる | 残存期間しか使えない前提で試算する |
注意したいのは、定期建物賃貸借は要件を欠くと成立しない点です。賃貸人があらかじめ書面を交付して説明しなかったときは、更新がないこととする旨の定めは無効になります(第38条第5項)。契約書の表紙に「定期建物賃貸借契約書」とあっても、説明書面が残っていなければ普通借家として扱われる可能性があります。売り手から契約書一式を取り寄せるときは、説明書面まで含めて確認してください。
賃貸借が自動で引き継がれるかどうかは、どの型で承継するかによって分かれます。判断の分かれ目は「賃借人という契約の当事者が入れ替わるか」です。
| 承継の型 | 賃借人は変わるか | 賃貸人の承諾 |
|---|---|---|
| 事業譲渡(個人立クリニックの譲渡を含む) | 変わる(賃借権を個別に譲り渡す) | 必要(民法第612条第1項) |
| 出資持分の譲渡・社員の入れ替え | 変わらない(賃借人である医療法人がそのまま残る) | 法律上は不要。ただし契約書の定めを要確認 |
| 医療法人の合併 | 変わる(消滅法人の権利義務の全部を存続法人が承継) | 包括承継のため個別の承諾は要しない |
医療法人の吸収合併は、合併により消滅する医療法人の権利義務の全部を存続する医療法人に承継させるものと定義されています(医療法第58条)。賃借権も「権利義務の全部」に含まれるため、個別の移転手続きは要りません。一方、事業譲渡は権利義務を1つずつ移す方式なので、賃借権も個別に譲り渡すことになり、承諾が必要になります。
出資持分の譲渡では賃借人である医療法人が変わらないため、条文上は承諾が問題になりません。ただし、賃貸借契約書に「役員または出資者に変更が生じるときは賃貸人の事前の承諾を要する」といった条項が置かれていることがあります。これは法律ではなく契約上の義務なので、契約書を読まないと分かりません。3つの型の違いそのものは事業譲渡と持分譲渡の違いで整理しています。
民法第612条第2項は、賃借人が第1項に違反して第三者に賃借物の使用または収益をさせたときは、賃貸人は契約の解除をすることができる、と定めています。つまり、承諾を得ないまま買い手が診療を始めると、賃貸借そのものを解除されるおそれがあります。承継の対価を払い、内装や機器を引き継いだあとで場所を失うのは、回復のしようがない損失です。
実務では、次の順序で進めるのが安全です。
承諾に際して、賃貸人から名義変更料や条件の変更を求められることがあります。承諾するかどうかは賃貸人の判断に委ねられているため、金額や条件は交渉になります。誰が負担するのかを最終契約で決めておかないと、引き渡し直前に費用の押し付け合いが起きます。調査で見る項目の全体像はクリニックのデューデリジェンスを参照してください。
ここは資金計画に直結するので、とくに注意が必要です。民法第622条の2第1項は、賃貸人が敷金を返還しなければならない場面を2つ挙げています。1つは賃貸借が終了して賃貸物の返還を受けたとき、もう1つが「賃借人が適法に賃借権を譲り渡したとき」(同項第2号)です。
つまり、事業譲渡で賃借権を適法に譲り渡すと、敷金は売り手に返還されます。買い手に自動で引き継がれるわけではありません。買い手は譲渡代金とは別に、敷金を改めて差し入れる資金を用意する前提で考えてください。誰が受け取るかは当事者間の取り決めなので、最終契約で精算方法まで明記します。運転資金を含めた組み立ては承継開業に必要な資金と調達方法で扱っています。
もう1つ落とし穴があります。敷金の規定を含む改正民法が施行されたのは2020年4月1日で、法務省の説明によれば、施行日より前に締結された賃貸借契約には原則として改正前の民法が適用されます。ただし施行日後に当事者が合意によって契約を更新したときは、改正後の民法が適用されます。開業から20年以上たっているクリニックでは、契約がいつ結ばれ、その後どう更新されてきたかで適用される条文が変わります。契約書の日付と更新の履歴を必ず押さえてください。
連帯保証も見落とされがちです。個人が保証人になる根保証契約は、支払の上限となる極度額を定めなければ効力を生じません(民法第465条の2第2項)。買い手の院長個人が保証人になる場合は、極度額がいくらで書面に記載されているかを確認します。また、売り手の院長が保証人のまま残っているとき、保証契約は賃貸人と保証人の間の契約なので、当事者が承継したからといって当然に外れるわけではありません。外れるには賃貸人との間で合意が必要になります。
定期建物賃貸借は、期間の定めがある建物の賃貸借について、公正証書による等書面で契約するときに限り、契約の更新がないこととする旨を定められる制度です(借地借家法第38条第1項)。2021年のデジタル社会形成整備法による改正で、契約をその内容を記録した電磁的記録でしたときも書面によるものとみなされるようになりました(同条第2項、2022年5月18日施行)。
承継で確認すべき点は3つです。
残存期間が短い物件でも承継の対象にならないわけではありませんが、のれん(決算書に載らない収益力の価値)の評価には当然に影響します。物件の型ごとの特徴はビル診・戸建て・医療モールの比較にまとめています。
承継の前後で建物が売却されることがあります。この場合でも、賃借人の立場は法律で守られています。借地借家法第31条は、建物の賃貸借は登記がなくても建物の引渡しがあったときは、その後その建物について物権を取得した者に対して効力を生ずる、と定めています。すでに引渡しを受けて診療しているなら、新しい所有者にも賃借権を主張できます。
そのうえで民法第605条の2第1項は、この対抗要件を備えた不動産が譲渡されたときは、賃貸人たる地位は譲受人に移転すると定めています。同条第4項により、敷金の返還に係る債務も譲受人が承継します。ただし同条第3項は、賃貸人たる地位の移転は所有権の移転の登記をしなければ賃借人に対抗できないとしています。新しい所有者から賃料を請求されたときは、登記が済んでいるかを確認してから支払先を変えてください。
例外もあります。同条第2項は、譲渡人と譲受人が賃貸人たる地位を譲渡人に留保する旨とその不動産を譲受人が譲渡人に賃貸する旨を合意したときは、賃貸人たる地位は移転しないとしています。契約書上の賃貸人と登記上の所有者が一致しているかを、登記事項証明書で確かめてください。
最終契約の締結前に、書面で得ておくのが安全です。民法第612条第2項により、承諾のないまま使用させると解除されるおそれがあるためです。実務上は、最終契約の前提条件に「賃貸人の書面による承諾が得られること」を入れ、得られない場合には契約を白紙に戻せる形にしておきます。
賃借人である医療法人が変わらないため、民法第612条第1項の問題は生じません。ただし賃貸借契約書に、役員や出資者の変更時に事前の承諾を求める条項が置かれていることがあります。法律上は不要でも契約上は必要というケースがあるので、契約書の条項を一つずつ確認してください。
民法第622条の2第1項第2号により、賃借人が適法に賃借権を譲り渡したときは、賃貸人は敷金を返還しなければならないとされています。したがって買い手が改めて差し入れるのが原則です。売り手に返還される敷金を譲渡対価に反映させるかどうかは当事者の取り決めなので、最終契約で精算方法まで決めておきます。
一律に見送るべきとは言えません。更新がない以上、3年で退去する前提の試算が成り立つかが判断材料になります。再契約の可能性について賃貸人の意向を書面で確認できるか、設備投資を抑えられるか、移転先の目処が立つかを踏まえて、譲渡価額の妥当性とあわせて検討してください。
承諾するかどうかは賃貸人の判断に委ねられているため、条件の提示自体は起こりえます。なお借地借家法第32条は、租税その他の負担の増減や経済事情の変動、近傍同種の建物の借賃との比較により賃料が不相当となったときに、当事者が将来に向かって増減を請求できると定めています。個別の妥当性は事情によるので、弁護士に相談したうえで交渉することをおすすめします。
※本記事は一般的な情報提供を目的としたものであり、個別の契約の効力や解釈を保証するものではありません。賃貸借契約の承継、承諾の要否、敷金・保証の取扱いは契約書の文言と個別の事情によって結論が変わります。実際の交渉・契約にあたっては、弁護士・司法書士等の専門家に必ずご確認ください。数値・制度は2026年9月時点の情報に基づきます。
公開日:2026年9月15日/最終更新日:2026年9月15日
鎌形 博展(かまがた ひろのぶ)/ 株式会社EN 代表取締役社長。クリニックの開業支援・事務長代行・医業承継(M&A)をワンストップで手がける株式会社ENを率いる。制度改正が相次ぐ医療業界において、開業・承継の実務に精通した立場から現場に即した情報発信を行っている。
医療法人社団季邦会 理事長(首都圏7拠点運営)、東京医科大学救急災害医学講座 非常勤医師
社会医学系専門医指導医、慶應義塾大学大学院経営管理研究科 田中滋・中村洋ゼミ出身