
クリニックを承継したとき、いつから保険診療を算定できるか。その判断基準が2026年(令和8年)9月1日から全国統一のルールに切り替わりました(出典:厚生労働省保険局医療課「保険医療機関等の遡及指定及び機能移転の取扱いについて」(令和8年6月5日保医発0605第2号))。通知は診療録・患者・標榜診療科・管理者・職員の引継ぎを具体的な要件として並べています。承継の失敗は「高く買いすぎた」という形よりも、この要件を満たせず診療報酬・職員・患者のどれかが承継日に途切れる形で表に出ます。典型パターンを6つに整理します。
全国の一般診療所は105,690施設あり、そのうち38,008施設は個人が開設しています(出典:厚生労働省「医療施設動態調査(令和8(2026)年5月末概数)」)。個人立のクリニックを引き継ぐと、法律上は「旧医療機関の廃止」と「新医療機関の開設」が起きます。看板も患者も職員も同じでも、保険医療機関としては別の機関になるということです。承継の失敗のほとんどは、この断絶をどこまで埋められたかで決まり、表面化する時期がずれるため契約時には見えません。
| 典型パターン | 表に出る時期 | 直結する要件 |
|---|---|---|
| ①保険診療が算定できない空白期間が出る | 承継直後 | 遡及指定の類型判定と3か月前の予定届出 |
| ②旧医院が届け出ていた施設基準が落ちる | 承継月の請求時 | 届出の再提出と実績要件の有無 |
| ③スタッフが残らない | 承継の1〜3か月前後 | 労働契約の個別承諾/職員引継ぎ要件 |
| ④患者が離れる | 承継後3〜6か月 | 標榜診療科・管理者・診療録の継続性 |
| ⑤決算書に出ない負担が後から出る | 承継後6〜12か月 | リース残債・未払残業・原状回復義務 |
| ⑥診療圏の将来性を読み違える | 承継後2〜5年 | 将来人口と競合の推移 |
①〜④は制度の要件として文書化されているため、事前に潰せます。以下ではそこを中心に扱い、⑤⑥は末尾の関連コラムに委ねます。
新たに保険医療機関の指定を受ける場合、指定日は原則として申請を行った翌月の1日です。旧医院を月の途中で廃止すると、そこから翌月1日までは保険診療を算定できません。この空白を埋める例外措置が「遡及指定」で、旧医療機関の廃止日と原則同日または翌日付で新医療機関が指定を受けられます。
通知は申請手続きを、①開設者の死亡・病気等、②至近の距離(同一都道府県内の直線距離2km以内)への移転または所在地移転を伴わない開設者のみの変更で一定要件を満たす場合、③それ以外、の3つに分けています。最初の落とし穴はここで、②の「開設者のみの変更」は病院・診療所については次の3つに限られます。
親子間の承継や個人開業からの法人成りはここに入ります。一方、血縁も勤務歴もない医師が第三者として引き継ぐ形はこの3つに当たらず、③「その他の場合」として扱われます。③では、遡及指定を希望する日の原則3か月前までに地方厚生(支)局へ予定届出書を提出し、事前相談に応じる必要があります。
買い手側でよく起きるのは、契約締結を承継日の2か月前に置いてしまい、この予定届出に間に合わなくなる順序の失敗です。基本合意の段階で「遡及指定を希望する日」を先に固定し、そこから3か月を逆算して交渉の期限を決めるのが正しい順序です。なお②の1つ目にある「血族その他勤務する保険医等」に該当するかは地方厚生(支)局が個別に総合判断するため、自分の解釈で決め打ちしないでください。制度の中身は遡及指定ルールの解説記事で扱っています。
遡及指定が認められても、施設基準は自動的にはついてきません。新医療機関としてあらためて届出が必要で、通知は扱いを3つに整理しています。
ここでの失敗は単純です。旧医院が現に何を届け出ているかを、契約前に確認していない。届出の一覧は買い手が外から作れないため、譲渡側から受理されている届出の写しを書面で受け取ります。算定を前提に事業計画を組んでいた場合、この確認漏れは初月から収益差として出ます。
「医院を買えば、そこで働いている人もついてくる」という前提が、承継でいちばん多い誤解です。事業譲渡における権利義務の承継は、個別の債権者の同意を必要とする特定承継です。労働契約を譲受側に移すには、対象となる職員一人ずつから民法第625条第1項に基づく個別の承諾を得る必要があります(出典:厚生労働省「事業譲渡又は合併を行うに当たって会社等が留意すべき事項に関する指針」(平成28年厚生労働省告示第318号))。
同じ指針は譲渡側が果たすべきことも定めています。事業譲渡の全体の状況、譲受側の概要、業務内容や就業場所を含む労働条件を十分に説明し協議することが適当とされ、労働条件を変更して承継させる場合は変更についての同意が別に必要です。承諾しなかったことのみを理由とする解雇は労働契約法第16条により権利濫用として認められません。なお合併は包括承継なので労働契約はそのまま移り、労働条件も維持されます。
労務の問題はここで終わりません。職員が残るかどうかは、遡及指定が認められるかどうかにも直結します。通知の「基本的には認める要件」では、所在地移転を伴わず開設者のみを変更する場合、原則として当該開設者を除く全ての職員が引き続き雇用されることが求められます。③の判断基準でも、旧医院で診療にあたっていた常勤医師のうち概ね5割以上、または常勤医師数と非常勤医師の常勤換算医師数の和の概ね5割以上に相当する医師が、新医院で引き続き雇用され診療にあたることが要件です。
待遇を切り下げて人を入れ替える前提の承継は、労務と診療報酬の両方で行き詰まります。現在の労働条件をそのまま引き継げるかを先に検算し、変えるなら承継から時間を置くことです。
患者の定着についても通知は要件を並べています。無床診療所であれば、旧医院の外来・在宅患者への診療が新医院で引き続き行われること。主な標榜診療科が全て新医院で引き続き標榜されること。診療録等の引継ぎが行われ、旧医院を受診した患者からの問い合わせに新医院が対応すること。とくに次の2点は、通知が「特に慎重な判断を要する」と明記しています。
承継を機に自分の専門に絞りたいという希望は自然なものです。しかし前院長が内科・小児科・アレルギー科を掲げていた医院を内科単科にすると、患者が離れるだけでなく遡及指定の判断も厳しくなります。診療科の整理は承継時ではなく承継後に段階的に行うほうが制度と整合します。
診療録は承継後も保存義務が続きます。病院または診療所に勤務する医師のした診療に関する診療録は、その病院または診療所の管理者において5年間保存しなければなりません(出典:e-Gov法令検索「医師法」第24条第2項)。開設者が変わって義務が消えるわけではないため、紙・電子いずれの形式でも引継ぎ方法と保管場所を契約書に落としておきます。
承継と同時に移転する場合は距離の制限もあります。無床診療所の判断基準は「同一市区町村内」または「同一都道府県内の直線距離で6km以内」のいずれか。移転と開設者変更を同時に行う場合は③となり、3か月前の予定届出が必要です。
ここまでの要件を時系列に並べ替えると、承継の設計は「価格を決める前に手続きの締切を決める」順序になります。以下は無床診療所を第三者から承継する場合(③)の目安です。
| 時期 | 決めること・やること |
|---|---|
| 承継日の6か月前 | 遡及指定を希望する日を仮に固定し、自分のケースが①②③のどれに当たるかを地方厚生(支)局に確認する |
| 4〜5か月前 | 旧医院で受理されている施設基準の届出一覧を書面で入手し、実績要件の有無で仕分ける。常勤・非常勤の医師と職員の名簿を作る |
| 3か月前まで | ③に当たる場合、予定届出書を地方厚生(支)局へ提出し事前相談に応じる。ここが動かせない締切 |
| 2〜3か月前 | 職員への説明と、労働契約の承継に関する個別の承諾の取得を開始する。労働条件を変える場合は変更への同意も得る |
| 1〜2か月前 | 標榜診療科・管理者・診療時間の継続方針を確定する。診療録の引継ぎ方法と問い合わせ窓口を決める |
| 承継日 | 旧医院の廃止届と新医院の指定申請、届出を希望する施設基準の様式を提出する |
この表で動かせないのは3か月前の行だけです。交渉が「あと1か月延びそうだ」となったときに何が犠牲になるかを最初から分かっているかが、失敗と成功を分けます。
引き継げません。開設者が変わると、法律上は旧医療機関の廃止と新医療機関の開設になり、指定は受け直しです。新規指定の指定日は原則として申請を行った翌月の1日です。廃止日に遡らせるには遡及指定の適用を受ける必要があり、患者・診療録・標榜診療科・管理者・職員の引継ぎに関する判断基準を満たすことが前提になります。
原則なりません。通知が事前相談を不要としているのは、至近の距離(2km以内)への移転で開設者に変更がない場合と、所在地移転を伴わない開設者のみの変更のうち、血族その他勤務する保険医等への変更、個人から当該個人を代表者とする法人への変更、法人から当該法人の代表者への変更に限られます。血縁も勤務歴もない医師への譲渡はこれらに当たらず、遡及指定を希望する日の原則3か月前までの予定届出と事前相談が必要です。
事業譲渡の場合は引き継がれません。労働契約を移すには職員一人ずつから個別の承諾を得る必要があり、労働条件を変更して承継させる場合は変更についての同意も別に必要です。承諾しなかったことのみを理由とする解雇は権利濫用として認められません。一方、合併は包括承継のため労働契約はそのまま承継され、労働条件も維持されます。
遡及指定の判断基準では、旧医院における主な標榜診療科が全て新医院で引き続き標榜されることが求められます。一部を縮小する場合は、他の医療機関への適切な紹介が行われているか等の観点から特に慎重な判断を要するとされています。診療科を絞る計画があるなら、承継後に段階的に行うことを前提に、事前相談の段階で相談してください。
あります。無床診療所の判断基準は「同一市区町村内」または「同一都道府県内の直線距離で6km以内」のいずれかに該当すること。病院・有床診療所では「同一二次医療圏内」または「同一都道府県内の直線距離で12km以内」です。移転と開設者変更を同時に行う場合は事前相談が必要な類型に当たるため、3か月前の予定届出が前提になります。
※本記事は一般的な情報提供を目的としたものであり、個別の遡及指定の可否や施設基準の届出の要否を保証するものではありません。遡及指定および機能移転の可否は、個別事例の具体的な状況を踏まえて地方厚生(支)局が総合的に判断します。実際の承継手続きにあたっては、管轄の地方厚生(支)局・保健所および社会保険労務士・行政書士等の専門家に必ずご確認ください。数値・制度は2026年9月時点の情報に基づきます。
公開日:2026年9月2日/最終更新日:2026年9月2日
鎌形 博展(かまがた ひろのぶ)/ 株式会社EN 代表取締役社長。クリニックの開業支援・事務長代行・医業承継(M&A)をワンストップで手がける株式会社ENを率いる。制度改正が相次ぐ医療業界において、開業・承継の実務に精通した立場から現場に即した情報発信を行っている。
医療法人社団季邦会 理事長(首都圏7拠点運営)、東京医科大学救急災害医学講座 非常勤医師
社会医学系専門医指導医、慶應義塾大学大学院経営管理研究科 田中滋・中村洋ゼミ出身