この記事の要点
- 沖縄の医療MaaS「ぬちまーす号」は、看護師がホテルに出向き、遠隔の医師がオンラインで診る「D to P with N」の事業です。
- 主導するのは医師紹介会社MRT。三重では公金頼みだった医療MaaSを、沖縄では観光客の自由診療と旅行保険で自走させようとしています。
- 「30団体連携」の実務は5社で、残りは補助金・自治体・IRのための外形です。この組み立て方こそ、医師が学ぶべき点だと私は考えています。
ぬちまーす号では、ホテルの一室でどんな診療が行われるのか?
深夜、恩納村のリゾートホテルの一室。発熱した旅行者の枕元に、12誘導心電図計とパルスオキシメーターを抱えた看護師が座っています。タブレットの向こうにいる医師は東京か、あるいは別の県にいる。医師の指示で看護師がバイタルを取り、問診を補い、処方箋が発行されます。2時間以内に薬局から薬が届き、旅行者はホテルから一歩も出ずに受診を終えます。
これが2025年1月に沖縄で始まった医療MaaS「ぬちまーす号」の診療風景です。
救急の現場に長く身を置いてきた私は、この光景に二つの反応を同時に抱きました。「夜間の救急外来に軽症者が来なくなるなら歓迎だ」という実務家の感想と、「これは本当に医療なのか、それとも観光商品なのか」という引っかかりです。
この記事では、その両方を手放さずに、この事業を解剖してみます。主役は車両ではなく、車両を走らせている構造です。医師紹介会社として知られるMRT株式会社がなぜ医療MaaSを全国で手がけ、なぜ地方では公金に頼り、なぜ沖縄で自由診療と旅行保険に活路を見出したのか。そして、30を超える企業・団体という派手な連携の内側で、実際には何社が動いているのか。
結論を先に言えば、ぬちまーす号は「医療の問題を解いた事業」というより、「日本の医療MaaSが制度と採算の壁にぶつかった末にたどり着いた、最も現実的な妥協点」だと私は見ています。その妥協の形を知ることは、地域医療の持続性や、医師の働き方の次の形を考えるうえで、どの医師にとっても無関係ではありません。
医療MaaSとは何か?
医療MaaSという言葉は曖昧に使われますが、日本で実装されている形はほぼ一つに収斂しています。看護師が乗った車両が患者のもとへ行き、車内または患者宅で遠隔の医師とつなぐ「D to P with N」です。医師は移動しません。移動するのは看護師と医療機器です。
国内の原点は長野県伊那市のモバイルクリニック事業で、2019年度に車両が完成し、2020年から実患者の診療が始まりました。トヨタとソフトバンクが出資するMONET Technologiesが車両と配車を、フィリップス・ジャパンが機器を担い、高齢患者に通信機器の操作を強いることなく、看護師の補助で確実な診療ができる点が売りでした。MONETの資料では、伊那市の運行回数は400回以上とされています。
ここで押さえておくべきことが二つあります。
第一に、医療MaaSの価値は「オンライン診療の弱点を看護師で埋めること」にあります。純粋なオンライン診療は、聴診も触診もできず、高齢者はそもそも端末を扱えません。看護師が現場にいれば、医師は「目と手」を得ます。伊那市の医師は現場の看護師が客観的に意見をくれるので信憑性の高い情報が得られると評しています。
第二に、この形は制度上「新しい医療行為」をほとんど含みません。オンライン診療の指針、看護師の診療補助、処方箋の発行、薬局の配送——すべて既存の枠内です。新しいのは組み合わせと、人と機器を運ぶロジスティクスだけです。だからこそ医療MaaSは、医療機関よりも「人と車を手配できる事業者」が主導権を握る領域になりました。
その事業者の代表格が、MRT株式会社です。
医師紹介会社のMRTは、なぜ医療MaaSの車を走らせるのか?
MRTは、医師なら名前くらいは知っている会社でしょう。2000年設立、東証グロース上場(6034)、医師・看護師の人材紹介とスポット勤務のマッチングが本業です。約29.7万名の医療従事者会員を擁し、累計200万件以上の医師紹介実績を持ちます。
その会社がなぜ移動診療車を走らせるのか。答えは「医療MaaSの中核資源は車ではなく、医師と看護師の手配だから」です。
医療MaaSを分解すると、必要なのは次の要素です。遠隔で診る医師、現場に行く看護師、オンライン診療システム、車両と運転手、薬局、そして自治体や協議会との折衝。このうち最も調達が難しく、最も単価が高いのは医師と看護師です。車はトヨタ系が供給し、通信は通信会社が供給しますが、「木曜の夜に小児科医を遠隔で待機させる」ことができる会社は限られます。MRTはそこを人材プラットフォームで埋め、さらに自社の医療DXプラットフォーム「Door.」でオンライン診療の画面まで提供しています。
コロナ禍でこのモデルは一度大きく機能しました。MRTは東京都の健康観察フォローアップセンターを看護師150名/日、事務35名/日の体制で運営し、ワクチン接種会場の医療人材供給も担いました。「医療人材を束ねて行政サービスの受け皿になる」というBPOの型が確立したのはこの時期です。
医療MaaSはその延長線上にあります。MRTは経済産業省の地域新MaaS創出推進事業の受託事業者に選定され、三重県6町でオンデマンド医療MaaSの実証を2021年から始めました。パートナーはMONET、大日本印刷、オリエンタルコンサルタンツ。2023年にも同じ三重で、医療MaaSの省人化と車両を活用した地域拠点形成をテーマに再実証しています。
つまりMRTにとって医療MaaSは、人材紹介の派生商品であると同時に、上場企業として「医療DX」「地域医療」の物語を投資家に語るための看板事業でもあります。この二重性が、後述する沖縄案件の構造を決めています。
三重6町の実証で、医療MaaSはなぜ公金なしでは回らないと分かったのか?
結論から言えば、保険診療の収入では、看護師・運転手・車両を1件のために動かすコストを回収できないからです。
沖縄を理解するには、その前に三重で何が起きたかを知る必要があります。
三重県の大台町、多気町、明和町、度会町、大紀町、紀北町の6町で行われた実証は、看護師や保健師がマルチタスク車両で患者宅を訪問し、車内で保健指導や受診勧奨を行い、地域診療所とビデオ通話でつなぐもので、高齢者の免許返納で通院が困難になる中山間地の課題に応えるものでした。医療としては成立しました。サービスとしての医療MaaSの有効性が認められ、移動困難者の受診機会の増加に効果があったとされています。
問題はお金です。経済産業省のスマートモビリティチャレンジ最終報告(2024年3月)には、きわめて率直な記述があります。サービス事業者からは出店意向はあるものの、協賛金の拠出は見込めなかった。公金で実装することを目指す。度会町についても、医療MaaSの組込による収益拡大は現状見込めず、公共サービスとして公金での運用を検討中、と書かれています。実証3年を経て大台町で2024年度に実装が決まりましたが、それは自治体予算で車を走らせるという意味です。
ここが構造の核心です。へき地の高齢患者は保険診療で受診します。再診料とオンライン診療料、看護師の訪問にかかる加算を合計しても、看護師と運転手と車両を1件のために動かすコストには遠く及びません。医師は遠隔だから効率化できますが、看護師は物理的に移動するので効率化できません。「医師の乗らない移動診療車」は、医師の移動コストを看護師の移動コストに置き換えただけで、置き換えた分が診療報酬で回収できないのです。
だから全国の医療MaaSは、実証の間は国の補助金で、実装後は自治体の一般財源で走ります。MRTのような事業者は受託費と人材紹介で収益を得ますが、事業そのものは自走しません。
この構造の中で、MRTが「自走する医療MaaS」を初めて試せる場所として選んだのが沖縄でした。
沖縄の「ぬちまーす号」は、観光×自由診療×保険でどう自走を狙うのか?
ぬちまーす号は、観光客向けの高単価な自由診療を、レンタカー契約時の旅行保険に埋め込んで回収することで、自走を狙っています。
「ぬちまーす」は沖縄の言葉で「命の塩」。2025年1月24日、恩納村周辺の6市町村でこの名を冠した医療MaaSの実証が始まりました。医療機器を搭載した車両に看護師が乗って駆け付け、薬剤師がオンラインで服薬指導し、2時間以内に薬が届く。県内初の試みでした。
三重との決定的な違いは、患者が誰かです。三重の患者は保険診療の高齢者でした。沖縄の患者は観光客で、しかも夜間です。主催者はこの点を正面から設計に組み込みました。旅行中の救急外来で優先順位が比較的低い状態における夜間・深夜の利便性の高い医療サービスは、公的医療保険の負担ではなく自由診療でも選択肢になるのではないか——これが事業の前提です。
料金は特設サイトに明示されています。診察から処方までが25,000円(車両派遣、看護師派遣、オンライン診療料、機器使用料、処方箋発行料を含む)、薬代と配達料が9,200円、派遣エリアに応じて5,000〜18,000円の交通費が加わります。合計すると1件あたり約3.9万〜5.2万円の自由診療です。
体制は、県内外の医師20〜30人、看護師15人で、主に小児科、総合内科、産婦人科に対応。実証期間は木〜日の18時〜22時、土曜・祝前日は深夜2時までという夜間限定でした。
2025年3月、主催側は恒久化を発表します。救急外来における優先度の低い軽症者のニーズや、宿泊施設・レンタカー事業者との連携ニーズが確認されたため、4月以降も継続し、24時間365日体制に移行しました。同時に大同火災海上保険と提携し、OTSレンタカーやMARIOレンタカーの訪日旅行保険、台湾ツアー客向けの保険の加入者は、保険のコールセンターに電話するだけで車両が手配され、キャッシュレスで受診できるようになりました。
ここが沖縄モデルの肝です。高単価の自由診療を、観光客個人に「払わせる」のではなく、レンタカー契約時の保険に埋め込んで回収する。患者は立替えすら不要で、医療費の妥当性を議論する場面が生じにくい。琉球モビリティの濱砂社長は紹介状なしで大病院に軽症でかかれば選定療養費がかかるので、ぬちまーす号を呼ぶのと費用はそう変わらないと語っていますが、実際の主顧客は国内旅行者ではなく、保険で守られた訪日外国人だと私は見ています。
2025年10月には日本経済新聞が取り上げ、離島を含む県全域で24時間稼働し、電話予約後に登録医とマッチングして看護師をホテルに派遣する体制と報じられました。現在の運営主体は「Okinawa International Clinic Alliance」というインバウンド自由診療のブランドに統合されつつあります。
三重で公金に頼った医療MaaSは、沖縄で「インバウンド自由診療」という財源を見つけました。それが良いことなのかどうかは、後で改めて考えます。
三重と沖縄の違いを、ここまでの内容にそって整理すると次のとおりです。
| 項目 | 三重6町(経産省事業の実証) | 沖縄(ぬちまーす号) |
|---|---|---|
| 患者 | 免許返納などで通院が難しい中山間地の高齢者 | 観光客(夜間の軽症層。主顧客は訪日外国人だと筆者は見ている) |
| 診療 | 保険診療 | 自由診療(全額自己負担。合計約3.9万〜5.2万円) |
| 現場 | 看護師・保健師が車両で患者宅を訪問し、車内で保健指導・受診勧奨。地域診療所とビデオ通話でつなぐ | 看護師が機器を持ってホテルなどへ出向き、遠隔の医師がオンラインで診察。薬は2時間以内の配達が目標 |
| 財源 | 実証は国の補助金、実装後は自治体の一般財源(公金で実装することを目指す) | 患者の自己負担と、旅行保険(大同火災海上保険との提携)によるキャッシュレス受診 |
| 経過 | 2021年に実証開始、2023年に再実証、2024年度に大台町で実装 | 2025年1月に実証開始、2025年4月以降は24時間365日で運行 |
| 自走 | 事業そのものは自走せず、公金が前提 | 自走を狙っているが、利用件数・損益は非公開で「回る」ことは未証明 |
※表は本文の記述を整理したものです。「自走の見通し」は公開情報にもとづく筆者の整理です。
「30団体連携」の実態は何社で、なぜ協議会・補助金・IRの形をとるのか?
実務を担っているのは、公開リリース上は5社です。残りは補助金の応募要件、自治体との接続、広報・IRのための外形だと私は見ています。
ぬちまーす号のリリースを読むと、MRT、薬正堂、大日本印刷、琉球モビリティ、沖縄セルラー、ホット沖縄総合研究所、FMうるま、カヌチャリゾート……と企業名が延々と並びます。主催は「Society 5.0の実現に向けた沖縄健康・医療・福祉のまちづくりモデル構築プロジェクト会議」という、長い名前の会議体です。
医師の素朴な疑問はこうでしょう。看護師を乗せた車を走らせるのに、本当に30社が要るのか。
要りません。法規制上、必須のプレイヤーは6つしかありません。処方箋を発行し医師と看護師が所属する医療機関、調剤と配送を担う薬局、車両と運転手、決済または保険、送客導線となるホテルやレンタカー、そして通信。法人数でいえば4〜5社で成立します。
実際、恒久化のリリースはMRT、薬正堂、大同火災、琉球モビリティ、オール・ニッポン・レノベーションの5社が中心と明記しています。問い合わせ窓口は富樫氏と濱砂氏(琉球モビリティ社長)の2名です。しかもこの会議体の代表を務める富樫泰良氏は、オール・ニッポン・レノベーションの代表理事であると同時に、MRTの社外取締役でもあります。中核5社のうち2社(MRTとオール・ニッポン・レノベーション)が、会議体の代表である同一人物と直接つながっている。「30団体の連携」は、実態としては一つの人脈が組成した協議会だと私は見ています。
ではなぜ外形を膨らませるのか。理由は三つあると私は考えています。
第一に、補助金の応募要件です
国土交通省の日本版MaaS推進・支援事業は、応募主体を都道府県または市町村、自治体と連携した民間事業者、またはこれらを構成員とする協議会に限定しています。経産省や内閣府のスマートシティ系も同じで、「自治体+交通+医療+通信+他分野」の多セクター協議会が採択の定石です。ぬちまーす号の初回リリースに国交省MaaSのURLが貼られ、恩納村長のコメントが載っているのはこのためです。MRTと大日本印刷はこの型の常連で、三重でも同じ顔ぶれで経産省事業を受託しました。会議体の名前が内閣府の政策語彙そのものなのも偶然ではありません。
なお、令和6年度の国交省11事業に沖縄のこの案件は含まれておらず(沖縄からは八重山観光MaaSのみ)、公的採択の事実は公開情報からは確認できませんでした。協議会型で組んでおきながら、採択されなくても自走できる設計にした、と読むのが妥当でしょう。
第二に、医療MaaSが公金なしで回らないことを、MRT自身が三重で学んでいたからです
自治体を会議体に抱き込んでおけば、インバウンド自由診療が想定より伸びなかった場合でも、「地域住民向け」「防災」「離島」という公益の看板で公金に接続できます。実際、2025年2月のうるま市防災フェアに車両を出展し、災害時の医療支援への展開を掲げています。多目的車両という設計は、将来の公金接続のための布石でもあります。
第三に、上場企業の広報・IR装置です
MRTは東証グロース上場で、ぬちまーす号のリリースは投資家向けニュースにも配信されました。「沖縄初」「30団体連携」「NHK報道」「日経掲載」は株価、採用、営業のすべてに効く素材です。FMうるまが特番やCMを制作しているのは、広報が最初から設計に組み込まれている証拠です。
医師がこの構造を知っておくべき理由は、批判のためではありません。日本で地域医療の新しい仕組みを立ち上げるとき、医療の設計と同じくらい「協議会をどう組むか」「どの補助金に当てるか」「誰が看板になるか」が事業の成否を決めます。ぬちまーす号はその教科書的な実例です。
D to P with N で、医師は何ができて何ができないのか?
夜間救急外来の軽症層の大半は、遠隔でも判断できます。一方で、腹部の触診・採血・画像診断・点滴はできず、一次救急の受け皿であって二次救急の代替ではありません。
構造の話から、診察室に戻りましょう。実際にこの形で診る医師は何ができて、何ができないのか。
できること
看護師が持ち込む機器は12誘導心電図、パルスオキシメーター、電子聴診器、血圧計。発熱、咽頭痛、胃腸炎、軽い外傷、アレルギー、小児の夜間発熱といった、夜間救急外来の軽症層の大半は、この装備と看護師の目があれば遠隔でも判断できます。重要なのは、看護師が「帰してよいか、救急搬送か」の分岐を医師に代わって現場で感じ取れることです。顔色、皮膚の冷感、呼吸様式、歩けるかどうか。画面越しに失われる情報を、看護師が補います。
できないこと
腹部の触診、採血、画像診断、点滴。腹痛で虫垂炎を否定したい、胸痛で心筋梗塞を否定したいという場面では、心電図があっても限界があります。サイトの注意書きが意識不明、呼吸困難、大量出血などの深刻な症状はすぐに119番へと明記しているのはそのためで、この事業は一次救急の受け皿であって二次救急の代替ではありません。
医師側の負荷
遠隔の医師は複数県から参加し、沖縄に常駐しません。小児科、総合内科、産婦人科という診療科の選定は、観光客の夜間ニーズに合わせたものです。待機は実質オンコールで、呼ばれなければ報酬が発生しない形と推測されます。MRTのスポット勤務プラットフォームと相性がよく、医師にとっては「自宅から深夜に1〜2件診る副業」として設計されています。
訴訟・責任の構造
ここが医師として最も気になる点です。会議体には法人格がありません。医療行為の責任は処方箋を発行する医療機関と、そこに所属する医師にあります。しかし公開情報からは、その医療機関がどこか(創医会か、KIN放射線治療・健診クリニックか、別の法人か)が明示されていません。遠隔で診た医師、現場の看護師、看護師の所属先、車両の運行会社が別々の法人に分かれているとき、有害事象が起きた際の責任分界は契約次第になります。参加を検討する医師は、自分がどの医療機関の医師として処方箋を書くのか、賠償責任保険が誰の名義でかかっているのかを、必ず確認すべきです。
自由診療という性質
保険診療では診療内容が点数で縛られますが、自由診療では「診た」ことの範囲が契約で決まります。1件25,000円の中に何が含まれ、何が含まれないかは事業者が決めます。医師の裁量は広いのですが、患者側から見れば「高い割に何もしてもらえなかった」という紛争の種になりえます。運営側が医療費の妥当性についてわざわざ声明を出しているのは、実際にそうした摩擦があることを示唆しています。
臨床的に見れば、D to P with Nは「よく訓練された看護師がいれば、夜間一次救急の軽症層をかなり安全に遠隔で処理できる」というモデルで、これは医学的には妥当な主張です。問題は医学ではなく、誰が責任を持ち、誰が払うかという制度設計にあります。
ぬちまーす号の料金・体制・実績は、どこまで公開されているのか?
料金と体制は公開されていますが、利用件数・救急外来の抑制効果・損益といったKPIは公開されていません。
公開されている数字を並べると、この事業の輪郭と、語られていない部分がはっきりします。
| 項目 | 公開値 | 出典 |
|---|---|---|
| 診察〜処方の料金 | 25,000円 | 特設サイト |
| 薬代・配達料 | 9,200円(7日目以降は1日500円加算) | 特設サイト |
| 追加交通費 | 5,000〜18,000円(エリア別) | 特設サイト |
| 医師体制 | 県内外20〜30人(小児科・総合内科・産婦人科中心) | 琉球新報 |
| 看護師体制 | 15人 | 琉球新報 |
| 実証期間の運行時間 | 木〜日 18〜22時、土・祝前日は26時まで | 沖縄セルラー掲載の共同リリース |
| 恒久化後の運行時間 | 24時間365日、県全域 | MRTリリース |
| 薬の配達目標 | 診療後2時間以内 | 特設サイト |
| 病院受診との所要時間比較 | 病院なら5時間超のケースを3時間未満で完結 | ANR(日経掲載報告) |
一方で、公開されていない数字があります。実証期間中の利用件数、恒久化後の月間件数、救急外来受診の抑制効果、利用者の国籍別内訳、医師1人あたりの月間対応件数、看護師の待機時間に対する実稼働率、そして損益です。
日経が報じた「オンライン診療施設2.6倍」は沖縄県全体の数字であり、ぬちまーす号の件数ではありません。富樫氏は実証中に恩納村だけでなく国頭村滞在の旅行者からの依頼もあったと語っていますが、件数は示していません。「ニーズが確認された」という恒久化の根拠も、定量データを伴っていません。
損益を粗く考えてみます。看護師1人と運転手1人を一晩待機させるコストは、人件費だけで3〜5万円程度と仮定できます。1件4万円前後の売上から医師報酬、薬局、車両、保険会社への手数料を引いた粗利が仮に1万円なら、損益分岐には一晩3〜5件が必要です。沖縄の年間入域観光客数は約1,000万人で、1日あたり約2.7万人が滞在している計算ですが、そのうち夜間に体調を崩し、救急外来ではなくこのサービスを選ぶ人がどれだけいるか。24時間365日・県全域を15人の看護師で謳う以上、常駐ではなくオンコールで、呼ばれた分だけ払う変動費モデルで運用している可能性が高いと私は見ています。そうでなければ三重と同じ壁にぶつかるからです。
数字が出ていないこと自体が、この事業の現在地を物語っています。社会実装は「できる」ことが示された段階であり、「回る」ことはまだ証明されていません。
この事業は、医師の働き方・へき地医療・開業に何を示唆するのか?
立場によって読み取れるものは違いますが、共通するのは「財源と責任の設計が、診療の中身以上に事業の成否を決める」という点です。
この事業を遠くの出来事として眺めるのはもったいないと思います。医師の立場によって、読み取れるものが違います。
勤務医・救急医にとって
夜間救急外来の軽症受診は、どの病院でも消耗の最大要因です。ぬちまーす号が示したのは、「軽症層を病院の外で、保険外で、看護師主導で処理する」という選択肢が、少なくとも観光地では成立しうることです。もしこれが地域住民にも広がれば、救急外来のトリアージは病院の入口ではなく、電話の段階で始まることになります。歓迎すべき方向ですが、同時に「払える人だけが快適な夜間診療を受けられる」という二層化を伴います。救急医療の公共性をどう守るかは、病院側からも声を上げる必要があります。医師の働き方の制度面は、医師の時間外労働短縮目標ラインの最初の節目(令和9年)を扱った記事で解説しています。
へき地・離島に関わる医師にとって
三重の教訓はそのまま当てはまります。D to P with Nは医学的には有効ですが、保険診療の範囲では看護師の移動コストを回収できません。自治体が一般財源で車を走らせる覚悟を持つか、沖縄のように保険外の財源を見つけるか、どちらかしかありません。へき地で医療MaaSを提案されたら、最初に問うべきは「3年後、誰が払うのか」です。実証の成功は実装の成功を意味しません。国の財源の動きは、地域医療介護総合確保基金の令和8年度第1回内示額を扱った記事も参考になります。
副業・スポット勤務を考える医師にとって
遠隔待機で深夜に数件診る働き方は、今後MRTのようなプラットフォームを通じて増えるでしょう。参加する前に確認すべきことは三つ。どの医療機関の医師として処方箋を書くのか、賠償責任保険は誰の名義か、そして自由診療の説明責任(何をもって25,000円なのか)を誰が患者に負うのか。遠隔の医師は現場にいないぶん、トラブル時に最も孤立しやすい立場です。遠隔診療・遠隔読影・監修といったオンライン副業全般の相場と注意点は、医師のオンライン副業|遠隔読影・診療・監修の相場で整理しています。
開業医・医療法人経営者にとって
最も学ぶべきは医療の中身ではなく、事業の組み立て方です。ぬちまーす号は、人材紹介会社が車両会社と薬局と保険会社を束ね、自治体を協議会に抱き込み、補助金の型に合わせて外形を整え、上場企業のIRと地方ラジオの広報を同時に回しました。医療機関はその中の一部品にすぎません。これは、地域医療の新しい仕組みを「医療機関が主導する」時代が終わりつつあることを示しています。クリニックや医療法人が主導権を持ちたいなら、医師であること以上に、協議会を組み、財源を設計し、看板を作る側に回らなければならない。私自身、クリニックを運営する立場として、この点は他人事ではないと感じています。
訪日外国人を診る医師にとって
沖縄のインターナショナルクリニック連合は、自由診療の往診を24時間・多言語で提供し、保険会社と直結しています。都市部でも訪日客向け自由診療は拡大しており、同じ構造(保険会社との提携、キャッシュレス、多言語コールセンター)が標準になりつつあります。医療費の妥当性をめぐる摩擦は避けられず、料金の根拠を文書で説明できる体制が前提になります。
結語:医療MaaSが解いているのは、医療の問題か、制度の問題か?
医療MaaSが解いたのは、医療の問題ではなく、財源の問題です。
伊那市で始まった「医師の乗らない移動診療車」は、医学的には最初から正しかったのだと思います。看護師が現場にいる遠隔診療は、患者だけのオンライン診療より安全で、医師の移動を省けます。問題はずっと、誰が看護師と車の移動代を払うかでした。
三重はその答えを「自治体」に求め、沖縄は「訪日観光客と保険会社」に求めました。どちらも医療の問題を解いたのではなく、財源の問題を解いたのです。そして財源が決まると、患者が決まります。三重では高齢者が、沖縄では外国人旅行者が、この車の主な患者になりました。へき地の高齢者と観光客の夜間発熱は、医学的にはどちらも一次救急の軽症ですが、制度的にはまったく別の患者です。
ぬちまーす号が沖縄の救急外来を本当に守っているかどうかは、件数が公表されるまで分かりません。しかし、この事業が示したことは一つはっきりしています。日本で地域医療の新しい形を立ち上げるとき、決定的なのは診療の技術ではなく、協議会の組み方、補助金の型、財源の設計、そして看板の作り方だということです。医療機関はその構造の中で、一部品として組み込まれる側になりつつあります。
医師がこの流れを嫌うのは自由ですが、知らずにいることはもう許されないと私は思います。「ぬちまーす」は命の塩という意味ですが、この事業が塩を振っているのは患者の命ではなく、医療MaaSという長く干からびていた事業モデルのほうです。それが地域医療の滋養になるのか、観光商品の調味料で終わるのかは、次に誰が、どの財源で、どの患者のために車を走らせるかで決まります。
よくある質問
ぬちまーす号とは何か?
沖縄で2025年1月に実証が始まった医療MaaSで、2025年4月以降は24時間365日体制に移行しています。看護師が心電図計などの機器を持ってホテルなどへ出向き、遠隔の医師がオンラインで診察して処方箋を発行し、薬は診療後2時間以内の配達を目標にしています。主導するのは医師紹介会社のMRTです。
料金はいくらか?
診察から処方までが25,000円、薬代・配達料が9,200円で、これに派遣エリア別の交通費5,000〜18,000円が加わり、合計は約3.9万〜5.2万円です。公的医療保険の対象外で、全額自己負担の自由診療です(特設サイトの料金表による)。
公的医療保険は使えるのか?
使えません。ただし、大同火災海上保険と提携したレンタカー会社(OTSレンタカー、MARIOレンタカー)の訪日旅行保険や、台湾ツアー客向けの保険の加入者は、保険のコールセンターに電話するだけで車両が手配され、キャッシュレスで受診できます。
救急外来の代わりになるのか?
なりません。一次救急の軽症層の受け皿であり、意識不明・呼吸困難・大量出血などの深刻な症状はすぐに119番へ、と特設サイトが明記しています。腹部の触診、採血、画像診断、点滴はできません。
「30団体連携」は、実際に何社が動いているのか?
恒久化のリリースが中核として挙げているのは、MRT、薬正堂、大同火災、琉球モビリティ、オール・ニッポン・レノベーションの5社です。法規制上の必須プレイヤーも4〜5社で成立するため、残りは補助金の応募要件、自治体との接続、広報・IRのための外形だと筆者は見ています。
遠隔の医師として参加する場合、何を確認すべきか?
次の3点です。どの医療機関の医師として処方箋を書くのか、医師賠償責任保険は誰の名義でかかっているのか、自由診療の説明責任(何をもって25,000円なのか)を誰が患者に負うのか。遠隔の医師と現場の看護師、運行会社が別法人の場合、有害事象が起きたときの責任分界は契約次第になります。
参考資料
- ぬちまーす号 特設サイト(料金、運行体制、注意事項)
- MRT株式会社 2025年3月14日リリース:運行の恒久化と大同火災との提携
- 沖縄セルラー掲載の共同リリース(2025年1月23日)
- 琉球新報:医師20〜30人・看護師15人体制
- 沖縄タイムス:実証開始の報道
- 大同火災海上保険:インバウンド保険とぬちまーす号の連携
- オール・ニッポン・レノベーション:日経掲載報告(2025年10月)
- MRT株式会社:取締役・監査役一覧
- 一般社団法人オール・ニッポン・レノベーション:団体概要
- 経済産業省 スマートモビリティチャレンジ2023 最終報告
- マイナビニュース:MRTの三重県オンデマンド医療MaaS受託(2021年)
- MONET Technologies:長野県伊那市モバイルクリニック事例
- 国土交通省:令和6年度 日本版MaaS推進・支援事業の応募要件
※本稿の損益試算は公開情報に基づく筆者の概算であり、事業者の実績値ではありません。





