
2026年10月1日、労働施策総合推進法の改正により、カスタマーハラスメント(カスハラ)への対応が事業主の義務になりました。厚生労働省の令和5年度「職場のハラスメントに関する実態調査」では、過去3年間に顧客等から著しい迷惑行為を受けた労働者は全体で10.8%、医療・福祉の従事者では16.6%でした。患者と毎日向き合う診療所にとって、他人事ではありません。本稿は、厚生労働省の指針・Q&Aと応招義務の通知をもとに、院長が整えるべきことを整理します。
カスハラ対策の義務化は、令和7年6月11日に公布された「労働施策の総合的な推進並びに労働者の雇用の安定及び職業生活の充実等に関する法律等の一部を改正する法律(令和7年法律第63号)」によるもので、施行は令和8年10月1日です。事業主が講ずべき措置の内容は、厚生労働省の指針(令和8年厚生労働省告示第51号)が定めています。
指針は、職場におけるカスタマーハラスメントを次の3つの要素をすべて満たすものとして定義しています。
| 要素 | 内容 |
|---|---|
| ① 顧客等の言動 | 顧客(潜在的な顧客を含む)、取引相手、施設の利用者などによる言動。電話やSNS上の言動も含みます |
| ② 社会通念上許容される範囲を超えている | 業務の性質その他の事情に照らして、要求の内容または手段・態様が許容範囲を超えているもの |
| ③ 労働者の就業環境が害される | 身体的・精神的な苦痛により、就業に看過できない支障が生じること |
ここで見落としやすいのは、保護の対象が正規職員だけではない点です。指針は正規・非正規・派遣の労働者すべてを対象としています。受付や看護補助に入るパート職員、派遣の医療事務も守る対象に入ります。
既存の就業規則やハラスメント規程のままで足りるか不安な院長も多いはずです。厚生労働省のQ&Aは、既存の懲戒規定で必要な措置を講じられるなら、カスハラ用に就業規則を必ず改正する必要はない、としています。
指針は「顧客等」の範囲を、顧客、取引相手、施設の利用者、その他事業に関係する者と広く取っています。商品の購入者、問い合わせをする人、取引先の担当者、施設の利用者や家族、近隣住民といった例が挙げられています。診療所に当てはめると、患者本人、付き添いの家族、予約や問い合わせの電話をかけてくる人、院外からSNSや口コミサイトで書き込む人が、実務上の「顧客等」の候補になります。
一方で、患者が体調不良や認知症などで不安定になっているときの言動は、悪意のあるクレームとは性質が異なります。Q&Aは、原因解消のための取組として、消費者の心理や障害特性、認知症の症状に関する資料の配布や研修を望ましいものとして挙げています。「怒鳴った患者はすべてカスハラ」と一律に扱うのではなく、状態に応じた対応と、許容範囲を超える言動への毅然とした対応を分けて考える必要があります。
指針が事業主に求める措置は、次の5つに整理できます。内容は厚生労働省の指針とリーフレットに基づき、「クリニックでの例」の欄は本稿が実務に置き換えた一例です。
| 措置 | 指針の内容 | クリニックでの例 |
|---|---|---|
| ① 方針の明確化と周知 | 毅然とした態度で対応し、労働者を保護する旨の方針を明確にし、管理監督者を含む全労働者に周知する。具体的な対処(上司への報告、複数人での対応、警察への通報など)も定めて周知する | 院長名で「職員への暴言・暴力・執拗な要求には毅然と対応する」と文書化し、朝礼や職員向けの掲示で共有する |
| ② 相談体制の整備 | 相談窓口をあらかじめ定めて周知する。カスハラに該当するか微妙な場合でも、広く相談に対応する | 窓口を院長または事務長にするか、外部の専門家に委託する。受付職員が直接言いにくい場合の逃げ道を用意する |
| ③ 事後の迅速かつ適切な対応 | 事実関係を迅速に確認し、被害を受けた労働者に配慮し、必要に応じて警察通報や法的手続を検討し、再発防止措置を講じる | 発生時の記録様式(日時・相手・内容・対応者)を作り、担当変更や面談などの配慮を決めておく |
| ④ 抑止のための措置 | 特に悪質と考えられるものについて、対処の方針をあらかじめ定め、体制を整備する。警告文の発出、サービスの提供拒否、出入り禁止、仮処分の申立てなどが例示されている | 何回目で院長が対応するか、書面で警告するか、診療を断るかの順序を決め、顧問弁護士や警察への連絡先を一覧にしておく |
| ⑤ 併せて講ずべき措置 | 相談者・行為を受けた者のプライバシーを保護し、相談したことや協力したことを理由とする不利益な取扱いをしない旨を定めて周知する | 相談内容を共有する範囲を限定し、「相談しても評価や配置で不利にならない」ことを明記する |
相談窓口や専任担当者を置く余裕がないのは、診療所の多くに共通する事情です。相談窓口は外部の機関に対応を委託する形でも設置でき、カスハラの相談窓口を他のハラスメント窓口と一体にする必要もありません。従業員が1名しかいない店舗のようなケースでは、上司による代わりの対応や、被害者と行為者を分離できない場合の対応について、事業主が実態に応じて定めるものとされています。
承継後の院長業務はどう切り分ける?では法令上手放せない業務を整理していますので、あわせて確認してください。
国の支援もあります。厚生労働省が令和8年9月14日の検討会に出した資料によると、医療現場向けのeラーニング動画(全12本、各20分程度)が公開されており、令和8年度は医療業を対象にしたモデル事業が行われています。また、各都道府県に設置された医療勤務環境改善支援センターが伴走支援を担います。研修を内製しにくいクリニックは、まず活用を検討するとよいでしょう。
医療機関でカスハラ対策を考えるとき、避けて通れないのが医師法第19条の応招義務です。「診療の求めがあれば断れない」と受け止めている先生は少なくありませんが、厚生労働省医政局長通知(令和元年12月25日・医政発1225第4号)は、診療を求められても応じないことが正当化される場合の考え方を整理しています。
| 場面 | 通知の考え方 |
|---|---|
| 患者の迷惑行為 | 診療・療養等において生じた、または生じている迷惑行為の態様に照らし、診療の基礎となる信頼関係が喪失している場合には、新たな診療を行わないことが正当化される |
| 緊急対応が必要でない場合 | 診療しないことは正当化されうる。ただし、時間内の受診を依頼する、他の診察可能な医療機関を紹介するなどの対応をとることが望ましい |
| 医療費の不払い | 以前に不払いがあったというだけでは、診療しないことは正当化されない。支払能力がありながら悪意をもって支払わない場合は別 |
カスハラ防止の義務化は、診療を断る権限を広げる法律ではありません。ただ、「職員を守るために、毅然と対応する方針を持つこと」と「応招義務の範囲内で診療をお断りすることがあること」は両立します。断る場合に備え、いつ・誰が・どの言動を理由に判断したかを記録しておくと、後で説明しやすくなります。
厚生労働省のリーフレットは、社会通念上許容される範囲を超えるかどうかを、要求の内容と、手段・態様の両面から見るとしています。内容面の例は、理由のない要求、契約にない過度な要求、対応が不可能な要求、不当な損害賠償の要求です。態様面の例は、身体的な攻撃、脅迫・中傷、威圧的な言動、継続的で執拗な言動、拘束的な行為です。
| 見るポイント | カスハラの方向 | 対応を検討する余地が大きい方向 |
|---|---|---|
| 要求の内容 | 診察や処方の内容を理由なく強要する、医療行為として不可能な要求をする | 待ち時間の長さや説明不足への不満、診療内容への疑問や質問 |
| 手段・態様 | 大声での威嚇、長時間の居座り、職員への暴言や撮影・拡散の示唆、身体への接触 | 落ち着いた口調での意見や、書面・窓口を通した申し入れ |
厚生労働省のQ&Aは、事業主または労働者の側の不適切な対応が、問題の言動の原因や背景になっている場合もあることに留意するよう述べています。待ち時間の案内不足や説明の不親切さが先にあり、そこから患者が怒りを強めたケースでは、まず院内の運用を見直す必要があります。カスハラ対策は、患者への対応を強めるだけでなく、苦情の原因を減らす取組とセットで進めるものです。
令和5年度の実態調査(2023年12月〜2024年1月実施)では、従業員30人以上の企業・団体のうち、著しい迷惑行為に関する相談があった割合は全体で27.9%、医療・福祉では53.9%でした。労働者に聞いた過去3年間の経験率は、全体の10.8%に対し、医療・福祉の従事者は16.6%です。医療・福祉は相談のある企業の割合が全業種の中で最も高い、と調査結果は示しています。
カスハラへの備えは、職員の離職防止の施策でもあります。賃上げや評価制度と合わせた人材定着の考え方はクリニックの人材定着2026で、パート職員の人件費に影響する2026年10月の制度変更は人件費の記事で整理しています。
職員のメンタルヘルス対策の義務化については、クリニックのストレスチェックは2028年4月から義務に?50人未満の対象者・流れ・準備の確認点【2026年版】もあわせてご確認ください。
対象です。厚生労働省の資料は、業種・規模を問わずすべての事業主に適用されると説明しています。相談窓口を外部に委託することもできるため、規模に応じた形で措置を整えることになります。
必ずしもそうではありません。厚生労働省のQ&Aは、信用失墜行為や服務規律違反に対する懲戒規定など、既存の規定に基づいて必要な措置を講じられる場合には、カスハラに係る規定を新たに設けるために就業規則を改正する必要はないとしています。ただし、方針の明確化と周知は別に必要です。
迷惑行為の態様に照らして診療の基礎となる信頼関係が失われている場合、新たな診療を行わないことは正当化されうる、というのが令和元年の厚生労働省通知の考え方です。ただし緊急対応が必要なケースは別で、断る場合も時間内の受診依頼や他の医療機関の紹介が望ましいとされています。個別の判断は、弁護士などの専門家にご相談ください。
指針は、相談窓口をあらかじめ定めて周知することを求めていますが、担当者の肩書きまでは指定していません。院長自身が当事者になりうるクリニックでは、院長以外にも相談できる先を設けておくと機能しやすくなります。外部機関に委託する形も認められています。
厚生労働省のリーフレットは、相談先として都道府県労働局の雇用環境・均等部(室)を案内しています。医療分野では、医療現場向けのeラーニング動画のほか、各都道府県の医療勤務環境改善支援センターによる支援があります。
※本記事は一般的な情報提供を目的としたものであり、個別の事案における法的な判断や、診療をお断りしてよいかどうかを保証するものではありません。実際の対応方針や就業規則の整備にあたっては、社会保険労務士・弁護士等の専門家に必ずご確認ください。数値・制度は2026年10月時点の情報に基づきます。
公開日:2026年10月2日/最終更新日:2026年10月2日
鎌形 博展(かまがた ひろのぶ)/ 株式会社EN 代表取締役社長。クリニックの開業支援・事務長代行・医業承継(M&A)をワンストップで手がける株式会社ENを率いる。制度改正が相次ぐ医療業界において、開業・承継の実務に精通した立場から現場に即した情報発信を行っている。
医療法人社団季邦会 理事長(首都圏7拠点運営)、東京医科大学救急災害医学講座 非常勤医師
社会医学系専門医指導医、慶應義塾大学大学院経営管理研究科 田中滋・中村洋ゼミ出身