
2026年の秋は、クリニックの人件費に二つの変更が同時に効いてきます。一つは10月以降に順次発効する令和8年度の地域別最低賃金。もう一つは、同じ2026年10月に予定されている社会保険の「賃金要件」(いわゆる106万円の壁)の撤廃です。
どちらもパート職員を複数抱えるクリニックに直接跳ね返る一方で、「10月から全員が社会保険加入になる」といった誤解も広がりやすい論点です。本記事では厚生労働省・日本年金機構の一次情報だけを使い、何がいつ変わり、何は変わらないのかを整理します。
2026年7月28日の第75回中央最低賃金審議会で、令和8年度の地域別最低賃金額改定の目安が答申されました。引上げ額の目安はAランク54円、Bランク56円、Cランク56円です。仮に目安どおりに全都道府県で引上げが行われた場合、全国加重平均は1,176円、上昇額は55円(前年度は66円)、引上げ率は4.9%(前年度は6.3%)になります(出典:厚生労働省「令和8年度地域別最低賃金額改定の目安について」(2026年7月28日 報道発表))。
Aランクは埼玉・千葉・東京・神奈川・愛知・大阪の6都府県、Bランクは28道府県、Cランクは13県。目安はあくまで各地方最低賃金審議会への参考値で、実際の金額は各都道府県労働局長が決定します。
東京地方最低賃金審議会は2026年8月5日、現行の時間額1,226円を54円引き上げ(引上げ率4.4%)て1,280円に改正することが適当であるとの答申を行いました(出典:東京労働局「東京都最低賃金の54円引上げを答申」(2026年8月5日))。同発表時点では、東京労働局は「この答申を踏まえ、本年度の東京都最低賃金の改正に係る手続を進めてまいります」としており、発効日はまだ示されていません。
2026年8月25日時点で、厚生労働省の「地域別最低賃金の全国一覧」に掲載されているのは令和7年度額です(出典:厚生労働省「地域別最低賃金の全国一覧」)。令和8年度額は都道府県ごとの発効日から適用されるため、自院の所在地の発効日は必ず管轄の都道府県労働局の発表で確認してください。
なお、最低賃金の計算に算入しない賃金として、時間外・休日・深夜の割増賃金、賞与などの臨時に支払われる賃金、精皆勤手当・通勤手当・家族手当が定められています(出典:日本年金機構「短時間労働者に対する健康保険・厚生年金保険の適用の拡大」(2026年4月17日更新))。通勤手当込みで「時給1,300円相当」と考えていると、基本時給が最低賃金を下回る事故が起きます。
短時間労働者が健康保険・厚生年金保険に加入する要件は、現在この4つです。
このうち①の賃金要件が、令和7年年金制度改正法に基づき2026年10月に撤廃される予定です。令和7年度の地域別最低賃金が全都道府県で時給1,016円を超えたため、週20時間以上働けば月額賃金が自動的に8.8万円以上になり、要件が実質的に意味を失ったからです(出典:厚生労働省「短時間労働者の社会保険の加入拡大のポイント」(令和8年1月作成))。撤廃時期はもともと「公布から3年以内で、全国の最低賃金が1,016円以上となることを見極めて判断」とされていました(出典:厚生労働省「社会保険の加入対象の拡大について」)。
ここが最も誤解されやすい点です。賃金要件が撤廃されても、③の企業規模要件(厚生年金保険の被保険者数51人以上)は残ります。段階的に縮小・撤廃されるスケジュールは次のとおりです(出典:日本年金機構「短時間労働者に対する健康保険・厚生年金保険の適用の拡大」/厚生労働省「短時間労働者の社会保険の加入拡大のポイント」)。
職員10人規模の単独クリニックなら、週20〜30時間のパート職員が強制加入の対象になるのは令和17年(2035年)10月です。逆に20人を超える規模なら令和14年(2032年)10月には対象に入ります。自院がどの段階で当たるのかを先に確定させておくのが実務的です。
特定適用事業所の判定は、1年のうち6月間以上、厚生年金保険の被保険者(短時間労働者は含まない)の総数が基準人数以上となることが見込まれるかで行われます。そして総数の数え方は、法人事業所の場合は同一法人格に属する(法人番号が同一である)すべての適用事業所の被保険者数の合計、個人事業所の場合は適用事業所単位です(出典:日本年金機構「短時間労働者に対する健康保険・厚生年金保険の適用の拡大」)。
医療法人化して分院を展開している場合、拠点ごとには小規模でも法人全体で合算されます。1院あたり15人でも3院あれば45人。次の段階(36人以上)に入るかどうかは、法人全体で判定することになります。
企業規模要件が関係するのは「短時間労働者」の話です。日本年金機構の説明では、短時間労働者とは1週間の所定労働時間または1月の所定労働日数が通常の労働者の4分の3未満である方を指します(出典:日本年金機構「短時間労働者に対する健康保険・厚生年金保険の適用の拡大」)。つまり4分の3以上働く職員は、そもそも短時間労働者の枠ではなく、事業所の規模にかかわらず被保険者になります。
常勤が週40時間のクリニックなら、週30時間以上のパートはこちら側です。ここを見落とすと、企業規模要件とは無関係に加入漏れが起きます。なお所定労働時間が月単位で定められている場合は「1カ月の所定労働時間÷52/12」、年単位なら「1年間の所定労働時間÷52」で週換算します。
個人事業所のうち、常時5人以上の者を使用する法定17業種の事業所は社会保険に必ず加入することとされており、この17業種には「⑭医療」が含まれます(出典:厚生労働省「社会保険の加入対象の拡大について」)。個人開業の診療所で常時5人以上を雇用していれば、法人化していなくても適用事業所です。
今回の改正では、法定17業種に限らず常時5人以上を使用する全業種の事業所を適用対象に拡大することとされています(2029年10月施行時点で既に存在している事業所は当分の間対象外/同出典)。ただし医療はもともと17業種に入っているため、この拡大自体でクリニックの扱いが変わるわけではありません。
企業規模要件を満たさないクリニックでも、短時間職員を社会保険に加入させることは可能です。厚生年金保険の被保険者数が特定適用事業所の基準に満たない企業等であっても、被保険者の同意に基づく事業主の申し出により「任意特定適用事業所」になれます。この場合、加入要件に該当するすべての短時間労働者が加入対象になります(出典:日本年金機構「短時間労働者に対する健康保険・厚生年金保険の適用の拡大」)。同意については、従業員の2分の1以上の同意があれば短時間労働者も社会保険に加入できると案内されています(出典:厚生労働省「短時間労働者の社会保険の加入拡大のポイント」)。
さらに、新たに加入対象となる短時間労働者の保険料負担を軽減する時限的な措置があります。対象は従業員数50人以下の企業などで働き、企業規模要件の見直しなどにより新たに加入対象となる短時間労働者で、標準報酬月額が12.6万円以下である方。期間は3年間で、事業主が労使折半を超えて負担割合を増やすことで被保険者の負担を軽減でき、追加負担分はその全額を制度全体で支援する仕組みです(出典:厚生労働省「社会保険の加入対象の拡大について」)。この措置の施行期日は、改正の概要において令和8年10月1日とされています(出典:厚生労働省「年金制度改正法案の概要」)。「社会保険に入れると手取りが減るから嫌がられる」という現場の摩擦を、事業主側で吸収できる余地があるということです。
最低賃金の引上げ原資を設備投資で回収する制度が業務改善助成金です。事業場内で最も低い賃金(事業場内最低賃金)を50円以上引き上げ、生産性向上に資する設備投資等を行った場合に、その費用の一部が助成されます。最大600万円です(出典:厚生労働省「令和8年度業務改善助成金のご案内」(2026年4月))。
令和8年度の主要な条件を、同リーフレットから抜き出します(2026年8月時点)。
実務上いちばん危ないのは引上げのタイミングです。リーフレットには、地域別最低賃金の発効に対応して事業場内最低賃金を引き上げる場合は発効日の前日までに引き上げる必要があり、発効日当日に実施した場合は対象外と明記されています。複数回に分けての引上げは認められず、引上げ後の額と同額を就業規則等に定める必要があります。同一事業所の申請は年度内1回まで、交付決定前の設備導入は助成対象外、予算の範囲内での交付のため申請期間内に募集を終了する場合があります。
1. 賃金台帳で「最も低い時給」を確定する。通勤手当・精皆勤手当・家族手当は最低賃金に算入しません。基本時給ベースで、自院の所在地の令和8年度額を下回る職員を洗い出します。
2. 週20時間・週30時間の境目でシフトを棚卸しする。4分の3基準に達している職員の加入漏れを先に潰し、そのうえで週20〜30時間ゾーンについて自院がどの年から企業規模要件に入るのかを確認します。医療法人で分院がある場合は法人全体で合算です。
3. 助成金を使うなら発効日から逆算する。申請開始は9月1日、締切は発効日の前日。賃金引上げも発効日の前日まで、交付決定前の設備導入は対象外です。設備の選定・見積・就業規則の改定まで含めると、9月に入ってから動いても余裕はありません。
最低賃金は目安どおりなら全国加重平均1,176円(+55円)、東京は1,280円の答申で、発効は10月以降・都道府県ごと。社会保険の賃金要件(月8.8万円、いわゆる106万円の壁)は2026年10月に撤廃予定。ただし企業規模要件は51人以上のまま残り、36人以上は2027年10月、21人以上は2029年10月、11人以上は2032年10月、撤廃は2035年10月です。
つまり多くの単独クリニックにとって、2026年10月に直接効くのは「最低賃金」と「4分の3基準の加入漏れ」であり、パート職員の一斉加入はもう少し先の話です。ただし人数が増えれば前倒しで当たります。金額・要件・期限は必ず本記事末尾の一次情報で最新版を確認し、個別の適用判断は管轄の年金事務所・都道府県労働局、または社会保険労務士にご相談ください。
都道府県ごとに定められる発効日からです。中央最低賃金審議会が示すのは「目安」で、実際の金額と発効日は各地方最低賃金審議会の答申を踏まえて各都道府県労働局長が決定します。2026年8月25日時点で厚生労働省の全国一覧に掲載されているのは令和7年度額です。
短時間労働者としての強制加入という意味ではなりません。2026年10月に撤廃予定なのは月額8.8万円の賃金要件で、企業規模要件(被保険者数51人以上)は残ります。8人規模なら、企業規模要件で対象に入るのは令和17年(2035年)10月の撤廃時です。ただし通常の労働者の4分の3以上働く職員は規模に関係なく被保険者になるため、そちらは別途確認が必要です。
法人事業所の場合は、同一法人格に属する(法人番号が同一である)すべての適用事業所の被保険者数の総数で判定します。分院ごとではなく法人全体の合算です。個人事業所の場合は適用事業所単位で数えます。
助成対象外です。リーフレットには、地域別最低賃金の発効に対応して事業場内最低賃金を引き上げる場合は発効日の前日までに引き上げを完了する必要があり、発効日当日に実施した例は「対象外」と明記されています。複数回に分けての引上げも認められません。
いいえ。個人事業所であっても、常時5人以上の者を使用する法定17業種の事業所は社会保険に必ず加入することとされており、この17業種には「医療」が含まれます。個人開業の診療所で常時5人以上を雇用していれば適用事業所です。
制度が動く年は、賃金台帳の確認、シフトの棚卸し、就業規則の改定、助成金の期限管理といった事務作業が、診療の合間にまとまって発生します。株式会社ENでは、クリニックの開業支援・事務長代行・医業承継をワンストップで支援しており、事務長代行では労務や各種届出、規程の整備といった実務の段取りと運用をお引き受けしています。適用の可否そのものの判断は社会保険労務士や管轄窓口への確認が前提ですが、そこに至るまでの棚卸しと段取りで手が足りないと感じる場面がありましたら、お気軽にご相談ください。
※本記事は一般的な情報提供を目的としたものであり、個別の適用判断を保証するものではありません。自院が企業規模要件のどの段階に当たるか、業務改善助成金の交付対象になるかなどの実際の判断にあたっては、管轄の年金事務所・都道府県労働局、または社会保険労務士に必ずご確認ください。数値・制度は2026年8月時点の情報に基づきます。
公開日:2026年8月25日/最終更新日:2026年8月25日
鎌形 博展(かまがた ひろのぶ)/ 株式会社EN 代表取締役社長。クリニックの開業支援・事務長代行・医業承継(M&A)をワンストップで手がける株式会社ENを率いる。制度改正が相次ぐ医療業界において、開業・承継の実務に精通した立場から現場に即した情報発信を行っている。
医療法人社団季邦会 理事長(首都圏7拠点運営)、東京医科大学救急災害医学講座 非常勤医師
社会医学系専門医指導医、慶應義塾大学大学院経営管理研究科 田中滋・中村洋ゼミ出身