
開業資金の相談で最も多いのが「いくら借りられるのか」という質問です。しかし融資審査で先に問われるのは、借入額ではなくその額を返せる根拠です。加えてクリニックには他業種にない資金の穴があります。診療報酬は診療した月の約2か月半後にしか入金されないため、開業直後は患者が来ていても手元の現金が減り続けます。
この記事では、新規開業で中心になる2つの公的融資――日本政策金融公庫の「新規開業・スタートアップ支援資金」と福祉医療機構(WAM)の医療貸付――の条件を2026年8月時点の一次情報で整理し、使い分けと事業計画書で問われる数字までを解説します。
融資制度はいずれも設備資金と運転資金で限度額と返済期間が別に定められており、資金計画もこの区分に沿って組み立てる必要があります。設備資金は内装工事、医療機器、電子カルテ、什器、物件の敷金・保証金など。運転資金は人件費、家賃、リース料、医薬品・診療材料の仕入、広告費などです。
運転資金の見積りで軽視されがちなのが診療報酬の入金サイクルです。レセプトは診療月の翌月10日までに請求し、支払基金からの入金は診療の翌々月になります。令和8年度の支払予定日は4月診療分が6月22日、5月診療分が7月22日です(出典:社会保険診療報酬支払基金「診療報酬等の支払予定日」)。
4月に開業した場合、保険診療分の最初の入金は6月下旬です。その間も家賃と給与の支払いは発生します。窓口負担分は日々入りますが、保険診療の売上の大部分は2か月以上先の入金になる前提で運転資金を積む必要があります。
かつての「新創業融資制度」は取り扱いを終了し、現在の創業融資の中心はこの制度です。公庫が公表している融資条件は次のとおりです(出典:日本政策金融公庫「新規開業・スタートアップ支援資金」)。
| 利用できる方 | 新たに事業を始める方または事業開始後おおむね7年以内の方 |
|---|---|
| 融資限度額 | 7,200万円 |
| 返済期間(設備資金) | 20年以内(うち据置期間5年以内) |
| 返済期間(運転資金) | 10年以内(うち据置期間5年以内) |
| 担保・保証人 | 希望を伺いながら相談 |
設備資金で最長20年、据置期間を5年以内で設定できる点が実務上の利点です。据置期間中は元金返済が猶予されるため、患者数が積み上がるまでの資金繰りに余裕を作れます。
ただし利用できる方の条件には注記があり、「新たに営もうとする事業について、適正な事業計画を策定しており、当該計画を遂行する能力が十分あると認められる方」に限るとされています。自己資金の額を問う要件は制度上ありませんが、創業計画書の提出を求められ、計画の妥当性は必ず見られます。
公庫の利率は融資制度・使いみち・返済期間・担保の有無で変わります。令和8年8月3日現在、無担保で税務申告を2期終えていない方(=これから開業する方)の利率は次のとおりです(出典:日本政策金融公庫「金利情報 小規模事業者/個人事業主の方【国民生活事業】」)。
| 基準利率 | 年3.55〜5.25% |
|---|---|
| 特別利率A | 年3.15〜4.85% |
| 特別利率B | 年2.90〜4.60% |
| 特別利率C | 年2.65〜4.35% |
有担保の場合は基準利率が年2.60〜4.90%となり、無担保よりも下がります。金利は金融情勢によって変動するため、実際の借入金利は上表と異なる場合があります。
開業医が使いやすい引き下げの仕組みは3つあります。
適用可否は支店の判断になるため、面談時に必ず確認してください。
「経営者保証免除特例制度」を併用すると、上乗せ利率なしで経営者保証を免除できます。ただし公庫の制度概要では、対象は「経営状況等から借入返済が可能と見込まれる法人の方」と明記されており、個人開業のまま利用する制度ではありません。新たに事業を始める法人であっても、法人と代表者の一体性の解消が確認できることが要件です。医療法人を設立して開業する場合の選択肢として押さえておくとよいでしょう(出典:日本政策金融公庫「経営者保証免除特例制度」)。
WAMの医療貸付は長期・固定・低利が特徴で、金利水準は公庫より明確に低いです。診療所の新築資金・甲種増改築資金の貸付利率は、完全固定金利で10年以内が2.600%、20年以内でも3.300%(乙種増改築資金は3.100〜3.800%)です(令和8年8月3日改定。出典:独立行政法人福祉医療機構「医療貸付主要貸付利率表」)。
返済期間が10年を超える場合は、完全固定金利と「10年経過ごと金利見直し制度」のいずれかを選べます。10年以内は完全固定金利のみです。保証人不要制度を利用する場合は上記に0.150%が上乗せされます。
ここが最大の分岐点です。WAMの案内では、無床診療所・歯科診療所の新築資金は「診療所不足地域における新設の場合」および「在宅療養支援(歯科)診療所、かかりつけ医機能を有する診療所の新設の場合」に利用できるとされています(出典:独立行政法人福祉医療機構「ご融資の種類(診療所)」)。
都市部の無床クリニックが無条件に新築資金を使えるわけではありません。開業予定地が診療所不足地域に当たるかは、WAMが公開している「診療所過不足検索」で確認できます。該当しない場合でも、在宅療養支援診療所やかかりつけ医機能を有する診療所として開設する計画であれば対象になり得ます。物件を決める前に確認しておきたい項目です。
新築資金の条件は次のとおりです。
| 建築資金の融資額 | 無床診療所・歯科診療所は3億円以内(有床診療所は5億円以内) |
|---|---|
| 土地取得資金 | 3億円以内 |
| 償還期間(建築・購入) | 耐火建物20年以内(据置2年以内)/その他構造の建物15年以内(据置2年以内) |
| 償還期間(賃借・敷金保証金等) | 15年以内(据置1年以内) |
一方で、機械購入資金と運転資金は限度額が小さい点に注意が必要です。
運転資金が300万円上限である点は資金計画上とくに重要です。前述の診療報酬の入金遅れをこの枠で埋めることはできません。
2つの制度は競合ではなく役割が違います。
いずれの制度も「審査の結果、希望に沿えないことがある」と明記されています。1本に依存した計画は避け、複数の手段を並行して相談しておくのが安全です。
2026年時点で押さえておきたいのが、医師偏在対策と融資条件の連動です。WAMの利率表には、「重点医師偏在対策支援区域における診療所の承継・開業に係る優遇融資が適用される場合の貸付利率は上記利率−0.500%」(機械購入資金)と明記され、新築・増改築も優遇措置の対象事業として挙げられています。さらに「重点医師偏在対策支援区域における診療所の承継・開業後に経営が安定するまでの資金(診療所)」として5年以内・年2.300%の枠が設けられています(出典:独立行政法人福祉医療機構「医療貸付主要貸付利率表」令和8年8月3日改定)。
重点医師偏在対策支援区域は、都道府県が医師確保計画のなかで策定する「医師偏在是正プラン」において、地域医療対策協議会・保険者協議会での協議を経て選定される区域です(出典:厚生労働省「医師偏在対策について」)。選定状況は都道府県ごとに異なるため、開業候補地が該当するかは都道府県の医療政策担当課に確認するのが確実です。該当する場合の金利優遇はまとまった金額差になるため、物件選定の判断材料に含める価値があります。
公庫は創業計画書の様式と記入例をウェブサイトで公開しており、Excel・PDFでダウンロードできます。項目は「創業の動機」「経営者の略歴等」「取扱商品・サービス」「取引先・取引関係等」「資金計画」「収支計画」などです(出典:日本政策金融公庫「創業計画の書き方」)。
クリニックの場合、審査で説明を求められやすいのは次の数字です。
公庫は創業計画書のセルフチェック機能や書き方の解説動画も公開しています。作成前に目を通しておくと面談での説明が組み立てやすくなります。
資金調達は、制度の限度額を比べるより先に、自院の資金の出入りを月単位で描くところから始まります。
金利も制度も変動します。数字は必ず申込時点の公表資料と窓口で確認してください。
A. 「新規開業・スタートアップ支援資金」の融資条件に自己資金の額を定めた要件はありません。ただし「適正な事業計画を策定しており、当該計画を遂行する能力が十分あると認められる方」に限るとされ、創業計画書の内容が確認されます。自己資金の額そのものではなく、計画の妥当性と返済可能性が判断される構造です。審査の結果、希望に沿えない場合があることも公庫が明記しています。
A. 各機構が個別に審査を行い、担保・保証や資金使途の重複について整理が必要になります。両方に早い段階で相談し、資金使途の切り分けを明確にしておくことをおすすめします。具体的な組み合わせの可否は各機構の窓口に確認してください。
A. 診療科、物件形態(ビル診・戸建て・医療モール)、導入機器、面積によって大きく変わります。公的機関が公表する信頼できる平均値を確認できていないため、本記事では金額の目安を記載していません。内装工事と機器の見積り、物件の敷金・保証金、そして前述の運転資金を実額で積み上げるのが確実です。
A. 認定特定創業支援等事業(自治体が認定する創業塾・創業セミナー等)を受けて市区町村の証明書を取得しておくこと、認定経営革新等支援機関である税理士等の指導・助言を受けながら自ら事業計画書を作成すること、が挙げられます。いずれも公庫が特別利率Aの対象要件として公表しています。証明書には有効期間があるため、申込時期との関係を確認してください。
※本記事は2026年8月20日時点で公表されている情報に基づいています。金利・制度は変更される場合があるため、実際のお手続きの際は各機関の最新の公表資料および窓口でご確認ください。