はじめに

「エレビジスは製薬企業のビジネスなのか?」という問い

2026年2月13日、中央社会保険医療協議会は、中外製薬のデュシェンヌ型筋ジストロフィー治療薬「エレビジス点滴静注」に国内最高額となる3億497万円の薬価設定を了承した。SNSでは即座に反応があった。「3億円」という数字、そして「製薬企業が儲けすぎている」という論調である。

超高額遺伝子治療への違和感は、極めて自然なものだ。公的保険から1人あたり3億円が支払われる。患者の自己負担は公的制度により大きく抑えられるが、社会全体が負担する。しかも、この薬剤は2025年6月に海外で死亡例が報告され、欧州では承認が見送られたという経緯を持つ。「なぜ今、日本で保険適用なのか」という疑問が湧くのは当然である。

ただし、この議論はしばしば単純化される。「製薬企業が患者を食い物にしている」「3億円は高すぎる」「死亡例が出たのに承認するのはおかしい」。こうした感情的な反応は理解できるが、創薬ビジネスの構造、遺伝子治療という技術の特殊性、そして条件付き承認制度の設計思想を欠いた議論では、本質的な課題は見えてこない。

本稿の目的は、企業の善悪を論じることではない。エレビジスという一つの薬剤を題材に、創薬の構造と制度設計の課題を整理することである。私は元製薬企業勤務の経験を持ち、現在は臨床医として患者と向き合いながら、MBAで学んだビジネスの視点も併せ持つ。その立場から、この問題を多角的に検討したい。


なぜ今、エレビジスが注目されているのか:時系列で見る異例の展開

エレビジスが注目を集めているのは、単に薬価が高額だからではない。この薬剤が辿った経緯そのものが、極めて異例だったからである。時系列を追うことで、なぜ今この議論が必要なのかが見えてくる。

2025年5月:条件付き承認取得

2025年5月13日、エレビジスは日本で条件及び期限付き承認を取得した。デュシェンヌ型筋ジストロフィーという進行性の難病に対する、国内初の遺伝子治療製品である。対象は3歳以上8歳未満の歩行可能な患者に限定され、単回投与で治療が完結する。

重要なのは「条件及び期限付き」という部分だ。これは、有効性が「確認」されたのではなく「推定」された段階での承認を意味する。筋肉内にマイクロジストロフィンというタンパク質が発現することは確認されたが、実際に患者の運動機能が改善するかどうかは、期限である3年以内に検証することが条件として付されていた。

2025年6月:深刻な安全性問題の発生

承認からわずか1か月後、事態は急変する。2025年6月15日(現地時間)、ロシュとサレプタ・セラピューティクス(米国の開発元)は、エレビジスを投与された歩行不能な患者2名が急性肝不全で死亡したことを報告した。中外製薬は翌16日、国内での対応を発表した。

中医協は同月18日、保険適用の議論を一時見合わせることを決定した。各側委員からは「安全性の前提が揺らいだ」という声が上がった。中外製薬も、歩行不能患者を対象とした治験の投与を中断した。ただし、すでに承認を受けていた歩行可能な患者については「安全性、有効性の評価に変更はない」という立場を維持した。

2025年7月:欧州での承認見送り

さらに追い打ちをかけるように、2025年7月24日、欧州医薬品庁(EMA)はエレビジスの承認申請を拒否する意見を採択した(公表は翌25日)。理由は「運動機能に対する効果が認められなかった」というものである。注目すべきは、EMAは安全性を主な理由としていない点だ。有効性そのものに疑義を呈したのである。

この判断は市場にも影響を与えた。ロシュの株価は一時1.7%下落した。中外製薬も同月24日、厚生労働省との協議の末、日本国内での製品出荷を見合わせることを発表した。すでに承認を取得していたにもかかわらず、安全性への懸念を重く見た決断だった。

2026年2月:それでも保険収載された

そして2026年2月13日、中医協はエレビジスの薬価を了承した。薬価基準収載は2月20日で、価格は1患者あたり3億497万2042円。国内最高額である。投与対象は歩行可能な3歳以上8歳未満の患者に限定され、年間投与患者数はピーク時で37人、年間販売額は約113億円と予測されている。

中外製薬は安全対策として添付文書の改訂を行い、厚生労働省はこれを評価した。歩行可能な患者に限定すれば、リスク・ベネフィットバランスは許容範囲内という判断である。

この時系列が示すのは、「死亡例が出たのになぜ保険適用するのか」という疑問が、決して的外れではないということだ。同時に、「それでも必要と判断された理由」があるということでもある。そして、この一連の流れが、SNS上での「儲けている論」を加速させた。欧州は断ったのに日本は承認した、リスクは社会が負い利益は企業へ、という構図に見えたからである。


エレビジスとは何か:まず事実関係を確認する

感情的な議論に入る前に、エレビジスという薬剤が何であるか、事実関係を整理しておく必要がある。

疾患の重篤性

デュシェンヌ型筋ジストロフィー(DMD)は、遺伝子の変異によって筋肉が徐々に壊死していく進行性の疾患である。世界で男児約5000人に1人の割合で発症し、女児の発症は稀である。

幼児期には走れない、転びやすいといった症状から始まる。進行すると、10代前半で歩行能力を失い、やがて呼吸筋や心筋の機能も低下する。人工呼吸器や心臓サポートが必要になり、多くの患者は20代から30代で命を落とす。従来、根本的な治療法は存在しなかった。

治療薬としての位置づけ

エレビジスは、マイクロジストロフィンというタンパク質を発現する遺伝子を、アデノ随伴ウイルス(AAV)ベクターに搭載した製剤である。DMD患者の体内では、ジストロフィンというタンパク質が作られないために筋肉が維持できない。エレビジスは、これを補完する短縮版のタンパク質を体内で作らせることを目指す。

投与は単回のみで、再投与は行わない。対象患者には厳格な条件がある。抗AAVrh74抗体が陰性であること、歩行可能であること、3歳以上8歳未満であること、これらすべてを満たす必要がある。

開発の経緯

エレビジスの開発元は、米国のバイオベンチャーであるサレプタ・セラピューティクスである。中外製薬は、親会社のロシュを経由してこの薬剤のライセンスを導入した。契約時点では、臨床試験のフェーズ2段階だった。

この「フェーズ2段階での大型契約」という点は、後述するリスク分担の議論で重要になる。フェーズ2とは、有効性の兆候を探る段階であり、成功が保証されているわけではない。ロシュと中外製薬は、この段階でリスクを引き受けたのである。

薬価と市場規模

薬価は原価計算方式で算定された。1患者あたり3億497万2042円である。希少疾病用再生医療等製品として市場性加算Iの10%が適用されたが、原価の開示度によって加算係数はゼロとなり、実質的な価格上乗せは行われなかった。

年間投与患者数は、ピーク時(発売2年度)で37人、その後は年間20人程度で推移すると予測されている。年間販売額は約113億円である。厚生労働省は「医療保険財政への影響は限定的」との見方を示している。

参考までに、米国では発売時に約3.2百万ドル(約4億8000万円相当)のリスト価格が設定されたが、報道では約5億円とされることもある。日本の薬価は、米国と比較すれば低く設定されている。


なぜ「企業が儲けている」という印象が生まれるのか

ここまでの事実を踏まえた上で、なぜ「製薬企業が儲けている」という印象が生まれるのかを考えたい。読者の感情に寄り添うことは、建設的な議論の出発点である。

直感的な違和感の正体

3億円という数字は、一般的な感覚からすれば天文学的である。日本の平均的な年収の約60年分に相当する。これが1回の投与で支払われる。しかも、患者の自己負担は公的制度により大きく抑えられる。難病医療費助成制度や高額療養費制度により、患者家族の実質的な負担は限定的となる。

つまり、3億円は全額公的保険と公費から支払われる。国民が納める保険料と税金から、である。「自分たちのお金が巨大製薬企業に流れている」という構図が見える。ロシュは世界最大級の製薬企業であり、中外製薬もその傘下にある。違和感が生まれるのは当然だ。

安全性問題が増幅させた疑念

この違和感は、安全性問題によって増幅された。死亡例が報告され、欧州は承認を見送った。それでも日本は保険適用を決めた。「リスクは社会が負い、利益は企業が得る」という非対称性が際立って見える。

特にSNS上では、「なぜ日本だけが承認するのか」「製薬企業に忖度しているのではないか」という疑念が広がった。大手製薬企業と規制当局の関係性に対する不信感が、こうした見方を後押しした。

価格の不透明性

さらに、薬価の決定プロセスが外部からは見えにくいことも、疑念を深める要因である。原価計算方式と言われても、その詳細は公開されていない。開発費、製造費、流通費、それぞれがどの程度の比重を占めるのか、外部からは検証できない。

「なぜ3億円なのか」という問いに対して、明快な答えは存在しない。これが、「企業の言い値で決まっているのではないか」という疑念を生む。実際には中医協という公的な場で議論されているが、その議論の過程で企業側から提示される原価情報は限定的である。

こうした違和感、疑念、不透明性が重なり合い、「製薬企業が儲けている」という印象が形成される。この印象そのものを否定することは、建設的ではない。むしろ、この印象がなぜ生まれるのか、そしてその背後にある構造を理解することが重要である。


創薬ビジネスは”完成品を転売する商売”ではない

ここからが本稿の核心である。「製薬企業が儲けている」という議論の多くは、創薬ビジネスを「完成品を仕入れて高く売る」商売だと誤解している。実際には、そうではない。

フェーズ2は「成功直前」ではない

ロシュと中外製薬がエレビジスのライセンス契約を結んだ時点で、この薬剤はフェーズ2段階にあった。フェーズ2とは、少数の患者を対象に有効性の兆候を探る段階である。「効きそうだ」という手応えを得る段階であり、「効くことが証明された」わけではない。

遺伝子治療において、フェーズ2からフェーズ3へ進む成功率は決して高くない。製造の難しさ、免疫反応のリスク、長期的な安全性の不確実性など、乗り越えるべき壁は多い。エレビジスも実際に、承認後に死亡例が報告され、欧州では承認が見送られた。

つまり、ロシュと中外製薬は「成功直前の完成品」を買ったのではない。「成功するかもしれない、失敗するかもしれない確率」を買ったのである。

Big Pharmaは完成品ではなく”確率”を買う

大手製薬企業がベンチャー企業から薬剤をライセンスインする契約は、通常、アップフロント(契約一時金)とマイルストーン(開発の進捗に応じた支払い)で構成される。初期段階で数億円から数十億円を支払い、承認取得や販売開始といった節目ごとに追加で支払う。

この構造は、リスクの分担である。ベンチャー企業は初期開発の資金を得られるが、後期開発のリスクは大手に移転する。大手は、多数の候補薬にリスクを分散することで、一部の成功で全体の失敗を補う。

エレビジスの場合、ロシュは後期開発を引き受けた。製造設備への投資、グローバルな臨床試験の実施、各国の規制当局との折衝、これらすべてを負担した。そして実際に、安全性問題が発生し、欧州での承認は得られなかった。投資の一部は回収不能となった。

「儲け」の前に立ちはだかるハードル

エレビジスが日本で保険収載されたことは、ロシュと中外製薬にとって「成功」の一つである。しかし、この成功に至るまでに、どれだけのハードルがあったかを考える必要がある。

まず、遺伝子治療特有の製造の難しさがある。AAVベクターの製造は、従来の低分子医薬品や抗体医薬品とは桁違いに複雑である。ウイルスベクターを大量培養し、精製し、品質を安定させる。バッチ間のばらつきを最小化する。これらには専用の製造設備と高度な技術が必要であり、設備投資だけで数百億円規模になる。

次に、規制当局との折衝がある。条件付き承認を得るためには、有効性が推定される根拠を示し、承認後の検証計画を提出し、安全性監視体制を構築する。これは「第二の臨床試験」に近い労力を要する。

さらに、薬価交渉がある。日本の薬価は、企業の希望額がそのまま通るわけではない。原価を開示し、費用対効果を示し、中医協という公的な場で議論される。米国の薬価が約4億8000万円相当であるのに対し、日本は約3億円である。これは交渉の結果である。

そして、安全性問題への対応がある。死亡例が報告された時点で、出荷を見合わせ、追加の安全性試験を行い、添付文書を改訂する。これらすべてにコストがかかる。さらに、ブランド価値の毀損、株価への影響、投資家への説明責任も生じる。

こうしたハードルを乗り越えて初めて、「売上113億円」という数字が見えてくる。この113億円が、そのまま「儲け」になるわけではない。


「儲けている」という議論が見落としがちな4つのコスト

「3億円の薬価」という数字だけを見ると、製薬企業が巨額の利益を得ているように見える。しかし、この議論が見落としがちなコストが少なくとも4つある。

①失敗した開発案件のコスト

製薬業界では、開発を開始した薬剤のうち、最終的に承認を取得できるのは1割にも満たない。特に遺伝子治療は成功率が低い。エレビジス自体も、欧州では承認が見送られた。

つまり、エレビジスの薬価には、エレビジス単体の開発費だけでなく、失敗した他の開発案件のコストも反映されている。ロシュのような大手製薬企業は、数十から数百の開発プロジェクトを並行して進めており、その大半は失敗に終わる。成功した1つの薬剤で、9つの失敗を補う構造である。

「エレビジスだけで儲けているか」という問いは、実は意味をなさない。製薬企業の収益性は、ポートフォリオ全体で評価されるべきである。

②遺伝子治療特有の製造投資

遺伝子治療の製造は、従来の医薬品とは次元が異なる。AAVベクターを培養する設備、無菌環境の維持、品質管理のための分析機器、これらすべてが専用設計である。しかも、エレビジスのような希少疾患向け薬剤は、生産量が極めて少ない。年間37人分である。

つまり、巨額の設備投資をして、年間わずか数十バッチしか製造しない。単位あたりの製造コストは、通常の医薬品とは比較にならないほど高い。さらに、超低温での輸送・保管も必要である。これも通常の医薬品にはないコストである。

③グローバル市場アクセスのコスト

薬剤を承認取得することと、実際に患者に届けることは別である。各国で薬価交渉を行い、保険適用を獲得し、医療機関に情報提供する。これらすべてに人件費と時間がかかる。

特に遺伝子治療のような新しい技術では、医療機関側の受け入れ体制も整備する必要がある。投与可能な施設を限定し、医師への教育を行い、安全性監視の仕組みを構築する。これは企業側が主導して行う部分が大きい。

エレビジスの場合、欧州での承認が見送られたことで、市場規模は大幅に縮小した。開発当初に想定していた売上は実現しなかった。これもまた、グローバル展開のリスクである。

④安全性問題発生時の損失

2025年6月、エレビジスは死亡例の報告を受けて出荷を見合わせた。この期間、売上はゼロである。製造は止まり、在庫は保管され、医療機関への供給はストップした。

同時に、追加の安全性試験を実施し、規制当局と協議し、添付文書を改訂する。これらはすべて追加コストである。さらに、株価が下落し、投資家からの信頼を回復するための広報活動も必要になる。

「儲け」を論じるなら、こうした損失も勘案すべきである。薬価3億円という数字だけを見て、「3億円×37人=111億円が丸儲け」と考えるのは、あまりにも単純化しすぎている。


条件付き承認制度:「推定された有効性」で薬価を決める難しさ

エレビジス問題の核心は、実は「条件付き承認制度」そのものにある。この制度が、今回の議論を複雑にしている最大の要因である。

条件付き承認とは何か

条件付き承認とは、重篤な疾患で他に治療法がない場合、有効性が「推定」された段階で承認を与える制度である。通常の承認では、フェーズ3試験で有効性が「確認」されることが求められるが、条件付き承認ではそこまで待たない。

代わりに、承認後に有効性を検証する試験を実施することを条件とする。エレビジスの場合、承認期限は3年間であり、この間に有効性を確認できなければ、承認は取り消される可能性がある。

この制度の趣旨は、患者アクセスの早期化である。治療法がない難病患者にとって、数年待つことは命に関わる。「効く可能性がある」段階で使えるようにすることで、患者に希望を届ける。これは人道的な配慮である。

代替エンドポイントのリスク

しかし、「推定」には限界がある。エレビジスの場合、承認の根拠となったのは「筋肉内にマイクロジストロフィンが発現すること」である。これは代替エンドポイントと呼ばれる。

真のエンドポイントは、患者の運動機能が改善することである。歩行能力が維持される、呼吸機能が保たれる、生活の質が向上する、これらが最終的に示されるべき効果である。しかし、フェーズ2段階では、そこまでのデータは得られていなかった。

欧州EMAは、まさにこの点を問題視した。マイクロジストロフィンが発現しても、運動機能の改善が認められなかった、という判断である。つまり、代替エンドポイントと真のエンドポイントの間に乖離があった可能性がある。

日本の条件付き承認は、この乖離のリスクを承知の上で「それでも早く使えるようにする」という選択をした。これ自体は政策判断である。しかし、その判断の妥当性は、3年後の検証結果を待たなければわからない。

薬価算定の難しさ

ここで最大の矛盾が生じる。有効性が「推定」段階なのに、薬価は「確定」しなければならない。3億円という価格は、有効性が確認された後でも同じ価格である。もし3年後に有効性が確認できなければ、3億円は過大評価だったことになる。

逆に、有効性が期待以上に高ければ、3億円は過小評価かもしれない。しかし、薬価は一度決まると、簡単には変更できない。つまり、「推定」という不確実性を、「確定」した価格に変換する必要がある。この矛盾を、どう解決するか。

現行の薬価制度には、この問題に対する明確な答えがない。原価計算方式で算定するが、その原価には「失敗のリスク」も「有効性の不確実性」も十分には反映されない。結果として、企業側は「リスクを取ったのだから高くて当然」と主張し、支払側は「効くかわからないのに高すぎる」と反論する。平行線である。

「患者アクセス」と「エビデンス確実性」のバランス

条件付き承認制度は、「早く使えるようにする」ことと「確実なエビデンスを待つ」ことの間で、前者を優先する制度である。この選択自体に善悪はない。難病患者にとって、数年待つことは現実的ではない。

しかし、その選択には代償が伴う。有効性が不確実な段階で公的保険が支払うリスク、安全性問題が発生したときの対応の難しさ、そして価格設定の妥当性を検証できないこと、である。

エレビジス問題は、この制度設計の限界を露呈させた。死亡例が発生し、欧州が承認を見送る中で、日本は保険適用を決めた。これは「患者アクセス」を優先した結果である。しかし、「社会全体で3億円×37人=111億円を負担する」という判断が、本当に妥当だったのか。この問いに対する明快な答えは、誰も持っていない。


それでも価格議論が必要な理由

ここまで、創薬ビジネスの構造、リスク、コストについて論じてきた。これらを理解した上で、それでもなお、価格議論は必要である。なぜなら、構造を理解することと、価格が妥当であることは、別の問題だからである。

価格決定プロセスの不透明性

原価計算方式と言われても、その詳細は公開されていない。開発費がいくらか、製造費がいくらか、流通費がいくらか。企業は中医協にこれらを提出するが、開示度が低ければ加算係数はゼロになる。エレビジスがまさにそうだった。

つまり、企業側は「詳細は教えないが、この価格が妥当だ」と主張している。中医協はそれを審議するが、十分な情報がなければ、判断の根拠も弱くなる。結果として、「企業の言い値に近い」という印象が残る。

透明性の向上は、信頼性の向上に直結する。「なぜこの価格なのか」を説明できなければ、「儲けている」という疑念は消えない。

長期アウトカムの不確実性

エレビジスは単回投与である。効果がどれだけ持続するか、10年後、20年後のデータはない。もし効果が数年で失われるなら、3億円の価値は大きく減じる。逆に、生涯にわたって効果が持続するなら、3億円は妥当かもしれない。

しかし、現時点ではわからない。わからないまま、3億円を支払う。この不確実性を、どう評価するか。本来なら、成果連動型の支払いモデル(効果が確認されたら支払う、効果がなければ返金する)も検討されるべきである。しかし、日本の薬価制度にはそうした仕組みがない。

公的保険の持続可能性

厚生労働省は「年間113億円は限定的」と述べた。確かに、国民医療費約45兆円と比較すれば、0.025%に過ぎない。しかし、問題は累積効果である。

遺伝子治療は、エレビジスだけではない。今後、同様の超高額薬が次々と登場する。1つ1つは「限定的」でも、10個、20個と増えれば、無視できない規模になる。公的保険の持続可能性という観点から、どこまで負担できるのか。この議論は避けて通れない。

安全性問題と価格の関係

最後に、安全性問題が発生した場合、価格はどう評価されるべきか。エレビジスは死亡例が報告された。リスクが高いなら、価格も調整されるべきではないか。

あるいは、リスクが高いからこそ、開発コストも高く、価格も高くなる、という論理もある。しかし、そのリスクを患者が負うのか、社会が負うのか、企業が負うのか。この配分は、価格に反映されるべきである。

現行制度では、リスクが顕在化しても価格は変わらない。これが妥当かどうか、議論の余地がある。


リスク分担モデルとしての遺伝子治療開発

ここまでの議論を、MBA的なフレームワークで整理したい。エレビジスの開発と薬価決定を、「リスク分担モデル」として見ることで、構造がより明確になる。

フェーズ2段階での大型契約のリスク配分

サレプタ・セラピューティクス(ベンチャー)は、初期開発のリスクを負った。遺伝子治療という新しい技術に賭け、フェーズ1、フェーズ2まで進めた。ここまでの投資額は、数百億円規模である。

ロシュ(Big Pharma)は、フェーズ2段階でライセンスインし、後期開発のリスクを引き受けた。フェーズ3試験、承認申請、製造設備投資、市場展開、これらすべてを負担した。投資額は、さらに数百億円から千億円規模に膨らむ。

この契約は、リスクの時間的分散である。ベンチャーは早期に資金を回収できるが、成功時のアップサイドは限定的である。Big Pharmaは初期リスクを回避できるが、後期リスクを全面的に負う。

このモデルが機能するのは、Big Pharmaが「確率のポートフォリオ」を持っているからである。10個の候補薬にリスクを分散し、2個が成功すれば、全体で利益が出る。エレビジスはその2個に入ることを期待されたが、欧州では失敗した。

死亡例発生時の経済的損失

2025年6月、死亡例が報告された時点で、ロシュと中外製薬は重大な決断を迫られた。出荷を続けるか、止めるか。続ければ、さらなる死亡例のリスクがある。止めれば、売上はゼロになる。

結果として、出荷を見合わせた。この判断は、短期的には損失である。しかし、長期的にはブランド価値の保護、規制当局との信頼関係の維持、という意味で合理的だった。

ここで重要なのは、この損失を誰が負担するか、である。株主は株価下落という形で負担した。従業員は、事業計画の見直しという形で影響を受けた。しかし、患者や社会は、少なくとも追加の死亡例からは守られた。

これは、リスクの社会的配分である。企業がリスクを負うことで、社会のリスクが軽減される。この配分が適切であるかどうか、それが価格に反映されているかどうか、これが問われるべきである。

欧州承認見送りの財務インパクト

EMAの承認見送りは、ロシュにとって大きな打撃だった。欧州市場は、米国、日本と並ぶ主要市場である。ここでの売上を失うことは、投資利益率(ROI)を大幅に悪化させる。

当初の事業計画では、グローバルで年間数千億円の売上を見込んでいたはずである。それが、米国と日本のみに縮小した。日本の年間売上113億円は、当初計画の数分の一に過ぎない。

それでも、ロシュは開発を継続した。なぜか。一つには、すでに投資した資金を少しでも回収する必要があるからである。埋没コストを切り捨てるという判断もあり得たが、日本市場での成功可能性を評価し、継続を選んだ。

もう一つには、DMD患者への責任である。開発を中止すれば、治療の選択肢が失われる。企業の社会的責任として、継続する意義があった。

この判断は、純粋に経済合理性だけで説明できない。倫理的な側面、ブランドイメージ、長期的な信頼関係、これらも考慮された。MBA的に言えば、これは「ステークホルダー資本主義」の実践である。

「成功した1製品」の裏にある膨大な失敗コスト

エレビジスが日本で保険収載されたことは、「成功」である。しかし、この1つの成功の裏に、何百という失敗がある。

ロシュのパイプラインを見れば、数百の開発プロジェクトが進行中である。そのうち、最終的に承認を取得できるのは1割程度である。残り9割は、どこかの段階で開発が中止される。フェーズ1で失敗、フェーズ2で失敗、フェーズ3で失敗、承認申請で失敗。

これらの失敗に投じられた資金は、回収できない。数十億円、数百億円という単位で消える。この失敗コストを、成功した薬剤の価格に反映しなければ、製薬企業は持続できない。

「エレビジスだけで儲けているか」という問いは、ここで意味を失う。エレビジスの薬価には、エレビジス単体の開発費だけでなく、失敗した他のプロジェクトのコストも含まれている。これが、創薬ビジネスの本質である。

MBA的に言えば、これは「ポートフォリオ理論」の応用である。個別プロジェクトの成否ではなく、ポートフォリオ全体のリターンで評価する。エレビジスは、そのポートフォリオの一部に過ぎない。


医師として感じるリアル:患者・社会・企業の三角関係

ここまで、構造とリスクについて論じてきた。しかし、最終的に問われるのは、臨床現場での判断である。私は医師として、この問題をどう捉えるか。

患者にとっては唯一の治療選択肢

DMDの患者家族にとって、エレビジスは希望である。進行を遅らせる可能性がある唯一の遺伝子治療である。他に根本的な治療法はない。

もし私が主治医として、3歳から7歳のDMD患者を診ているとしたら、エレビジスを勧めるかどうか。これは極めて難しい判断である。

有効性は「推定」段階である。運動機能が改善するかどうか、確実ではない。欧州は承認を見送った。安全性についても、死亡例が報告されている。歩行可能な患者に限定すればリスクは低いとされるが、ゼロではない。

それでも、患者家族は「使いたい」と言うだろう。進行していく病気を前に、何もしないことは耐え難い。「効くかもしれない」という可能性に賭けたい。その気持ちは、痛いほどわかる。

医師として、私はこの希望を支持するか、慎重になるべきか。答えは簡単ではない。

社会にとっては巨額の負担

一方で、社会全体の視点に立てば、1人3億円は巨額である。年間37人で111億円。これが、他の医療費を圧迫しないか。

日本の医療保険制度は、連帯と相互扶助の理念で成り立っている。多くの人が少しずつ負担し、病気になった人を支える。しかし、超高額薬の登場は、この理念を揺るがす。

「3億円を37人に使うなら、その資金で何人の別の患者を救えるか」という問いが生じる。これは、医療資源の配分の問題である。限られた資源を、どこに優先的に配分するか。

功利主義的に考えれば、より多くの人を救える方に配分すべきである。しかし、DMD患者を見捨てるのか、という倫理的な問いも生じる。この二律背反に、明快な答えはない。

医師はその間に立つ

医師は、患者の希望と社会の負担の間に立つ。患者には「使える薬がある」と伝え、同時に「効果は確実ではない」とも伝える。社会には「必要な治療だ」と説明し、同時に「コストも考慮すべき」とも認識する。

この両方を同時に成り立たせることは、容易ではない。しかし、それが医師の役割である。患者の代弁者であると同時に、社会的責任も負う。

エレビジスを処方する判断は、単なる医学的判断ではない。倫理的、社会的、経済的な判断でもある。そして、その判断の結果は、患者の人生を左右する。

「希望」と「科学」の狭間

最後に、私が最も苦しむのは、「希望」と「科学」の狭間である。

科学的に見れば、エレビジスの有効性は「推定」段階である。確実なエビデンスがあるわけではない。医師として、エビデンスに基づいた医療を提供すべきである。

しかし、患者家族にとって、エビデンスを待つ時間はない。病気は進行する。「推定」であっても、可能性があるなら試したい。この希望を、科学の不確実性を理由に否定できるか。

もし私が「エビデンスが不十分だから勧めない」と言えば、患者家族は失望する。もし私が「試してみましょう」と言えば、効果がなかったときの責任を負う。

この狭間で、医師は判断を迫られる。そして、その判断に正解はない。


結論:「儲けているかどうか」ではなく、どう支えるか

長い議論を経て、ようやく結論に辿り着く。エレビジス問題は、「製薬企業が儲けているかどうか」という問いでは解決しない。問うべきは、「この構造をどう支えるか」である。

製薬企業は利益を追求する存在

まず、大前提として確認すべきことがある。製薬企業は、営利企業である。利益を追求することは、その存在意義である。利益がなければ、次の創薬に投資できない。株主に還元できない。従業員に給与を払えない。

「製薬企業が利益を出すこと」そのものを批判しても、建設的ではない。問題は、その利益の大きさ、得られ方、配分の仕方が、社会的に妥当かどうかである。

しかし遺伝子治療は従来モデルでは評価しきれない

エレビジスのような遺伝子治療は、従来の医薬品とは性質が異なる。単回投与で治療が完結する。効果の持続期間は不明。製造コストは極めて高い。対象患者数は極めて少ない。安全性リスクも大きい。

この特殊性を、従来の薬価算定方式で評価することには限界がある。原価計算方式は、継続的に使用される薬剤を前提としている。単回投与の価値を、どう算定するか。明確な方法論がない。

さらに、条件付き承認という制度が加わることで、複雑さは増す。有効性が「推定」段階で価格を決める。この矛盾を、現行制度は解決できていない。

本当に議論すべきは3つ

私は、議論の焦点を以下の3点に絞るべきだと考える。

①制度設計:条件付き承認と薬価の連動

条件付き承認で認められた薬剤の薬価は、有効性の確認と連動すべきである。3年後に有効性が確認されれば価格を維持する。確認されなければ価格を引き下げる、あるいは保険適用を取り消す。

この仕組みがあれば、「推定」段階で高額な価格を設定することの矛盾が緩和される。企業も、有効性を確認するインセンティブが強まる。

現行制度では、有効性が確認されなくても価格は変わらない。これは、社会にとってもリスクである。

②価値評価:長期的な費用対効果の測定

エレビジスの価値は、10年後、20年後にならなければわからない。単回投与の効果が生涯続くなら、3億円は妥当かもしれない。数年で効果が失われるなら、過大である。

この長期的な費用対効果を、どう測定するか。患者登録制度を構築し、長期的なアウトカムを追跡する。そのデータに基づいて、価格を再評価する。

こうした仕組みがなければ、価格の妥当性は永遠に検証できない。

③支払いモデル:成果連動型(アウトカムベース)の導入可能性

欧米では、成果連動型の支払いモデルが試みられている。効果が確認された患者についてのみ支払う、あるいは効果の程度に応じて価格を調整する。

日本でも、こうしたモデルの導入を検討すべきである。特に、超高額薬については、全額を前払いするリスクは大きい。効果を確認してから支払う、あるいは分割払いにする、といった柔軟性が必要である。

「儲けている論」を超えて

最後に、もう一度強調したい。「製薬企業が儲けている」という議論は、感情的には理解できる。しかし、それだけでは問題は解決しない。

重要なのは、感情論ではなく構造論で考えることである。善悪ではなく制度設計で考えることである。短期的視点ではなく長期的持続可能性で考えることである。

エレビジスは、3億円の薬価で保険収載された。この判断が妥当だったかどうかは、3年後、5年後、10年後にならなければわからない。しかし、少なくとも今、私たちにできることがある。

それは、この問題を「儲けているかどうか」という単純な問いに矮小化せず、「どう支えるか」という建設的な議論に昇華させることである。

製薬企業、規制当局、医療者、患者、そして社会全体が、それぞれの立場で考え、対話し、制度を改善していく。その積み重ねの中にしか、答えはない。

エレビジス問題は、終わりではない。始まりである。遺伝子治療という新しい技術が、私たちに突きつけた問いである。この問いに、私たちがどう答えるか。それが、日本の医療の未来を決める。

執筆後記

本稿は、元製薬企業勤務、MBA、臨床医という3つの視点から、エレビジス問題を構造的に分析することを試みました。

「儲けている」という感情的な反応を否定するのではなく、その感情がなぜ生まれるのかを理解し、その上で構造的な課題を提示する。これが、私の目指した論説の形です。

製薬企業を擁護するつもりも、批判するつもりもありません。ただ、この問題を単純化せず、複雑さをそのまま受け止め、それでもなお建設的な議論を模索する。それが、医療政策に関わる者の責任だと考えています。

読者の皆様からのご意見、ご批判をお待ちしています。

【著者】

 医師、薬剤師、社会医学系専門医指導医。医療経済学者の田中滋に師事し、医療経済学、公共政策を学んだ。慶應義塾大学大学院経営管理研究科卒業(経営学修士)。現在、都内で診療所を経営しながら、医療制度改革に関する研究・提言活動を行っている。主な関心領域は、地域医療、救急医療、災害医療、社会保障の持続可能性、再分配政策、医療の質評価など。

季邦会の院長

鎌形 博展

明治薬科薬学部を卒業後、中外製薬会社でMRとなるも、友人の死をきっかけに脱サラして、北里大学医学部へ編入する。
卒業後は東京医科大学病院救命救急センターにて救急医として従事。2017年には慶應義塾大学大学院にて医療政策を学び、MBAを取得。東北大学発医療AIベンチャー、東京大学発ベンチャーを起業した他、医療機器開発や事業開発のコンサルティングも経験。2019年、うちだ内科医院を継承開業。以降、2020年に医療法人季邦会(美谷島内科呼吸器科医院)を継承し、2021年には街のクリニック 日野・八王子を新規開業。2023年には株式会社EN創業。

専門科目

  • 救急
  • 地域医療
現在
  • 日本救急医学会
  • 日本災害医学会所属
  • 社会医学系専門医指導医
  • 日本医師会認定健康スポーツ医
  • 国際緊急援助隊・日本災害医学会コーディネーションサポートチーム
  • ICLSプロバイダー(救命救急対応)
  • ABLSプロバイダー(熱傷初期対応)
  • Emergo Train System シニアインストラクター(災害医療訓練企画・運営)
  • FCCSプロバイダー(集中治療対応)
  • MCLSプロバイダー(多数傷病者対応)
経歴
  • 都立多摩総合医療センター ジュニアレジデント
  • 東京医科大学病院 救命救急センター 後期研修医(現在、非常勤医師)
  • 東北大学発医療AIベンチャー 創業社員・経営企画室長
  • 東京大学大学院工学系研究科学術支援専門職員
  • 街のクリニック立川・村山を開業
  • 医療法人社団季邦会 理事長に就任
  • 株式会社ENを創業 京セラ・Donuts・Mediencer等で多数の医療事業の開発を支援している
出身
  • 東京生まれ・埼玉育ち
  • 本郷高等学校・明治薬科大学薬学部・北里大学医学部・慶應義塾大学大学院卒業
  • University of Calgary、Darthmouth Collegeに留学

研究実績

メディア出演

  • フジテレビ 『イット』『めざまし8』
  • 共同通信
  • メディカルジャパン など多数
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